爆弾三勇士

 九月十九日は昭和六年(1931年)の同日、柳条湖事変と言って、満州に駐留していた日本の関東軍南満州鉄道を自ら爆破して、それを中国兵の仕業だとして軍事行動を起こした満州事変の勃発記念日である。関東軍満州全域を占領、清朝の最後の皇帝溥儀を皇帝とした日本の傀儡政権を作ったのであった。

 これが始まりで、その後、我が国は上海事変支那事変と、宣戦布告もなしに大陸への侵略を続け、それがアメリカとの太平洋戦争に発展。遂には、沖縄の陥落、本土への大空襲、原爆投下などにより1945年八月の敗戦、大日本帝国の崩壊まで、14年も続いた戦争の始まりとなったのであった。

 私は昭和三年生まれなので、まだ子供で、何も分からないまま、政府の宣伝に乗せられて、「関東軍は無敵」だとか、「爆弾三勇士」だとか聞かされ、「満州は日本の生命線」「王道楽土、五族共和の国を作るのだ」「東洋平和の為ならば笑って死ぬ」だとかを信じていた。「敵中横断三百里」と言う本に夢中になったものであった。

 当時の日本は昭和四年の世界恐慌や東北地方の冷害などの影響もあり、不景気が続き、「ルンペンの歌」などが流行り、「こんな狭い島国で七千万もの人を養える訳がない」と、南米移民が進められると共に、貧困農民を誘って満蒙開拓団満州に送り込まれたりもした。それに伴い、土地を奪われて現地農民による襲撃などもあり、匪賊だ、馬賊だなどとも騒がれていた。

 その頃から軍人たちが威張りだし、左翼勢力が弾圧され、次第に言論統制が進み、遂には、神がかり的な天皇中心の独裁政治の大政翼賛会となり無謀な戦争に陥ってしまった。

 爆弾(肉弾)三勇士の像がどこかにあった。何処だったか思い出せないが、確かに見た覚えがある。この出来事は、実際には昭和七年の上海事変の時のことだったらしいが、敵陣の強固な鉄条網に阻まれて攻めあぐんだ時、3人の工兵が自ら申し出て、自分の体に爆弾を巻きつけ、点火して鉄条網に突っ込んで自爆し、鉄条網に大きな穴を開けて、そこから攻め入って占領したということであった。

 3人の申し出に隊長は感激し「では国のため死んでくれ」と許したということになっていた。これぞ大和魂の精華として大々的に宣伝され、3人が並んで太い竹竿のような爆弾を抱えて突き進む銅像が作られていた。

 しかし、今考えれば、当時の国や、軍隊の精神主義、何よりの人命軽視を象徴するような出来事で、これが受け継がれて、戦争末期の人命軽視の特攻攻撃の制度化にまで進んだのであり、多くの貴重な若い人生を奪ってしまう結果となってしまったのである。

 更には、その人命軽視の精神が戦地における「現地調達」主義を生み、一方では略奪暴行、他方では多くの戦死ならぬ餓死者を作ることに繋がったことも忘れてはならない。