忘れてならない戦争の記憶は被害よりも加害

 戦争といえば、アメリカとの太平洋戦争のことばかりが言われる。圧倒的な国力の差で初戦を除き、日本は一方的に大打撃を受けて敗れたので、戦争の記憶といえば、玉砕や転進、悲劇の沖縄戦、東京や大阪をはじめとする都市の空襲、広島、長崎の原爆など、被害のことばかりが出てくる。

 しかし、戦争であるからには、日本は被害を受けただけではない。アメリカが平和な街に一方的に空襲や原爆投下を行ったものではない。この戦争は日本が真珠湾攻撃を仕掛けたアメリカだけとの戦争ではなく、そのずっと以前からの日本が起こした侵略戦争の続きであったことを思い出すべきである。

 この戦争は日本が始めた日中戦争支那事変)が大元なのである。この戦争を15年戦争という言い方もあるように、始まりは1930年、昭和5年満州事変からである。日本が中国東北部へ侵略した満州事変が始まりで、上海事変支那事変などを経て、行き着く先が太平洋戦争だったのである。太平洋でだけの戦争ではなく、日本では大東亞戦争と言われていたように東アジア全体をも巻き込んだ戦争だったのである。

 満州国をでっち上げ、傀儡政府を作って支配し、土地を奪って満蒙開拓団として多くの農民を送り込み、関東軍という精鋭部隊を配置して植民地化していったのが始めである。子供の頃に「戦争」なのにどうして「事変」というのか不思議に思ったことがあったが、侵略の後ろめたさを象徴していたのであろう。

 支那事変(日中戦争)も盧溝橋事件から始まり、初めは不拡大方針と言いながら、やがては「蒋介石を相手にせず」と開き直って、上海方面にも戦線を広げ、やがて南京陥落。大虐殺を行いながら旗行列や花電車で祝い、「徐州徐州と草木も靡く」の如くに戦線は拡大するばかり。遂には、武漢三鎮(漢口)までも陥落させたが、中国は奥地の重慶まで逃げても降伏せず、渡洋爆撃しても、中国は援蒋ルートによって助けられ、いつまでも屈服させられなかった。 

 この戦争は誰が見ても大日本帝国が起こした4年も続いた中国への侵略戦争であったが、この戦争の挙げ句の果てが米英相手の太平洋戦争となったのである。その結果が全国津々浦々に至る空襲の被害や、原爆投下であり、これらはすべてその戦争の中の攻防の一環として行われてものであることを正しく理解すべきである。

 当時の皇軍といわれた日本軍は「現地調達」が重んじられていたので、必然的に占領地での略奪、暴行を伴い、人種差別で中国人をチャンコロと蔑視していたので、加害に反省もなく、南京大虐殺のようなことも起こるべくして起こったものであろう。太平洋戦争における日本兵の戦死者よりも餓死者が多かったこともその結果を表しているものであろう。

 日中戦争支那事変)当時は勝ち戦だったこともあり、帰国した兵隊たちが自慢話として現地での残虐行為も話しており、私も直接聞かされたことからも、日本兵による中国での残虐行為は否定出来ない事実であったと思わざるを得ない。

 こういう侵略戦争の結果が、太平洋戦争(日米戦争〜大東亜戦争)だったのだということを理解すべきである。そうだからと言って、無防備な都市への焼夷爆弾攻撃や、人類絶滅にも繋がりかねない原子爆弾の人体実験のようなことが許されるべきことではないことは当然である。

 ただし戦争は人間の理性を奪うものであり、日本も細菌兵器や毒ガスを用意し、原子爆弾の開発まで進めていたことも知っておいてよい事実である。南京占領時の大虐殺や他の占領地における数々の残虐行為のあったことも戦争である以上、否定出来ない事実であったと信じざるを得ない。

 大日本帝国の加害を忘れた被害のみを語るのは、憎むべき戦争の正しい記憶法ではない。被害、加害、その両者の記憶の上にこそ、正しい歴史の認識ができ、それを将来に活かすことが出来るのではないか。 加害の歴史を故意に消し去ることは、将来への教訓を奪うことであり、再び同じような残虐行為を繰り返すことにも繋がりかねない。戦争が相互に勝敗を決する以前に、戦争が人類を滅亡にまで追い込みかねない、非人道的な残虐行為であることを全ての人が知るべきであろう。