耳からの英語と目からの英語

 最近は英語から来たカタカナ文字の日本語が多く使われるようになってきたが、それらは決して元の英語と同じではない。パソコンなどが流行り出した頃、「ストレージ、ストレージ」と出て来るので、何のことかと思ったら、Storageのことだったことがあった。せめて「ストアレージ」とでもしてくれていたらすぐに分かったのにと思ったものであった。

 英語という外国語を日本語で理解しようというのだから、どうしても一つ一つの言葉をそのまま日本語にするのは難しいのは当然である。先ずは、耳から聞いて、聞こえたようにに日本語に置き換えるのが最初であろうが、文字を見て、それを根拠に日本語にした方が誰にも通じるであろうということなりやすい。

 そんなことから、明治の初め頃の人たちは聞いた英語をそのまま日本語にしようとしたのも当然である。したがってWhite Shirtがワイシャツになったのであろうし、Hepburnさんはヘボンさんになったのであろう。I'll get offは「揚げ豆腐」と言ったとか。

 ところが戦後になると、もう英語のアルファベットも普及し、目からの英語が主流になって来た。文字からの英語を日本語に翻訳して使うことが多くなると、Audry Hepburnさんは同じヘボンさんなのに、ヘップバーンさんと呼ばれることになった。

 それでも戦後アメリカへ行った時、アメリカ軍の空軍基地が近くにあったので、戦争花嫁としてアメリカに渡った何人かの日本女性と話す機会があったが、彼女たちは殆ど耳から覚えた英語を使っていたので、また一風変わっていた。キャナディカ、キャナディカと言うので、カナダではないし、何処のことかと思ったら、コネティカットのことだったし、Emergentはエマージェントでなくエモージェントであった。

 一番驚かされたのは「安物の毛皮のことをなぜか死んだファー」というのですと説明してくれた女性がいたことであった。Die とDyeとの違いであった。

 最近は和製英語が多くなっているが、時に、元の英語は何だったのだろうかと思うこともある。

将来のためには兵器よりも子供の教育

 新聞を見て驚いた。12月26日、2026年度の予算がこれまでの最高122兆3092億という、庶民には想像もつかない額になったそうだが、それは兎も角、その中身で、軍備費の増加が、長距離ミサイルの予算が9733億円とあるのに対し、小学生等子供の給食支援費が1649億円となっているそうである。

 軍備費とは言わずに防衛予算と言うらしいが、長距離ミサイルで大陸の敵基地を直接攻撃するというのであれば、防衛というより、明らかに攻撃であり、防衛予算とは言い難いのではなかろうか。それに防衛予算は当初2027年までに2%にする予定を繰り上げて今年度に達成させるそうだが、アメリカの要請に応えたもので、この先、更に3.5%まで増やせとも言われているようである。

 ところが、この2%というのも、必要なものの積み上げでこうなったものではなく、総予算の枠が先で、具体的な内容は後から決まるのだそうである。それに、自衛隊員も集まらず、給料アップも考えなければならないようである。

 それに対し、給食支援は物価の上昇、経済の混迷で、小学校などでの全員ただの給食を目指しているそうだが、色々な事情でなかなか実現が困難だそうで、それらの支援が計上されているものらしいが、防衛費に比べてな何と少ないことであろうか。

 防衛費は、その大部分が武器の調達のためのものであるが、武器は明らかな消耗品であり、使わなくてもすぐに旧式となり、更新しなければならなくなるものである。それに対して、給食支援費用は将来のこの国を支える人物の養成である。

 アメリカの要望に逆らってでも、軍事費よりも、将来のこの社会に生きる子供達を育てることの方がはるかに大事ではなかろうか。

 当然、国が滅びては子供の成長も、将来の優秀な国民を育てることも出来なくなるのではという反論も予想されるが、国の安全やその維持発展させるためには軍事よりも幅広い外交や近隣職との友好関係を維持発展させることこそ優先させるべきことは自明のことであろう。

下手をすると滅びかねない日本

 アメリカに言われるままに、韓国、フイリピン、オーストラリアなどと共に作る、中国包囲網の一環として、南西諸島への自衛隊配備を増強し、大陸まで届く攻撃用長距離ミサイルまで配備し、緊急時の県民の避難まで考慮して、実戦に備えている政府は、さらに防衛予算を2%にあげるのを今年中に早めるなど、平和憲法をも無視して、着々と臨戦体制を整えてきているところに、起こったのが高市首相の国会答弁での勇足の発言であった。

 台湾は元々中国のものを、日清戦争で日本が中国から奪った土地で、日本の敗戦で中国へ変換された土地であるが、1972年の日中条約で台湾が中国の一部であることを認め、中国として台湾の中華民国を捨て、中国人民共和国の承認に切り替えた歴史があるのである。そこへあの発言があったので、中国を怒らせたのは当然で、日中関係は当分回復不可能なぐらいにねじれてしまっている。

 それに対してトランプ大統領から高市首相への忠告まであったようだが、アメリカの対中政策は今や単なる中国包囲網や敵対などと言った単純なものではない。昨年末の12月28日の朝日新聞の記事にもあったように、「日中緊張批判封印するトランプ政権」という見出し記事にもあったように、対中強硬派として知られてきたルビオ国務長官の発言に「日本との強固な同盟関係を保ちながら、同時に中国共産党や中国政府とも生産的な協力方法を見出せる」というのがアメリカの本音なのであろう。

 中国封じ込め戦略も、いざという場合に周辺国に戦わせるのに必要な措置であろうし、武器を売りつけるにも絶好な対象となる。

 しかし、本格的な米中戦争となれば、世界の終わりになることは米国も十分承知のことであろう。アメリカとしても、多極化の世界を認めざるを得ないであろうし、むしろモンロー主義のような南北アメリカ大陸をドンロー主義で固めようとする傾向さえ見られる。

 日本にとっての危機は、むしろアメリカに乗せられて台湾なり南西諸島その他でトラブルを起こし、それが局地戦に発展するような事態となるケースではなかろうか。アメリカは決して助けてはくれない。仲裁役に回るであろう。ウクライナの二の舞である。日本は壊滅的なダメージを受けることになることも考えられる。

 そろそろ日本はアメリカ一辺倒では将来が危ういことを知り、手遅れにならないうちに、視野を広くして、対策を講じるべきであろう。

 

白寿の祝い

 人生50年と言われていた頃は、百歳と言えば「へーよく長生きしたものだな」と稀な例外が現れたように驚かされたものであったが、今では「百歳過ぎの老人は」と纏めて言われる如く、もう珍しくもなく、当たり前のように扱われるようになった。

 近くを見ても、百何歳で亡くなりましたと言った挨拶状が来たかと思うと、一緒にクロッキーの集まりに来ていたお婆さんも百六歳まで元気で出席してられた。もっと身近でも、姉が来年の3月には満百歳を迎える。

 そんなことより、来年の正月には私に「白寿だからお祝いをする」との案内状が届いた。百の漢字の上の横棒の一を取れば白になるので、九十九歳を白寿と言うのである。本当はまだ九十七歳なのだが、こう言う祝い事は、昔からのしきたりで、数え年で言うのが普通なので、こういうことになるらしい。もう百歳か、よくも長く、ここまで生きて来たものだと我ながら感心する。

 私は、敗戦の時、まだ十七歳だったが、大日本帝国海軍海軍兵学校の最後の生徒だった。飛行機も軍艦もほぼ全て無くしてしまった海軍は、もう本土決戦で、陸戦で戦うよりなかった。お国のために天皇陛下のために、爆薬を抱えて敵戦車のキャタピラーの下に飛び込んで死のうと本当に思っていた。戦争が半年も長く続いていたら、ほぼ確実に死んでいたであろう。

 ところが日本の敗戦により、突然、大日本帝国から放り出され、命は助かったが、今度は突然、それまでの自分の全て(精神的なものから生活まで)を失い、行くあてもなく、頼るものもなく、どうして生きていけば良いかもわからず、やがては虚無の世界に陥り、生きる意味まで失い、当時の多くの人に倣って死を覚悟したものであった。十八歳か十九歳の時だった。

 ただ虚脱状態が続く中で、虚無の心は消えず、勉強をする気にもなれず、ただ国に不信を抱いたまま、茫然と生きていた。それがいつ頃まで続いていたであろうか。そこから先の長い間に、何とかそれを乗り越えて、よくぞここまで生きて来たものかと不思議に思うぐらいである。

 その先の人生にもいろいろあったが、あの衝撃的で悲惨だった時代のことは今も忘れられない。つい昨日のことのように感じるが、もう80年も昔のことになってしまい、私も白寿ということらしい。本当に長く生きて来たものである。

「モンペ」とは?

 2〜3日前だったか、新聞の何処かのコラムの見出しに「モンペ」と出ており、何か学校に関係した記事のようだったので、思わず戦時中のことを思い出し、戦時中の学校のことでも載っているのかなと思って、眼鏡をかけて記事を読んでみると、何と「モンペ」と言っても、今の「モンペ」は昔の「モンペ」と違って、「モンスターペアレント」のことだった。

 子供のことで、学校に出向き、先生に文句を言う親たちのことである。昔は先生の言うことなら、少々理不尽を感じても、親は何も口出しをしないのが普通だったが、最近は学校で先生に叱られたりすると、親がそれを聞いて子供の味方をし、学校へ文句を言いに行くケースが増えたらしく、学校もその対策を立てているようである。

 世の中はどんどん動いているようである。戦時中は殆どの女性が利用し、いわば女性の制服のようなもので、殆んどの女性が着物を作り替えたりして、「モンペ」を履いていたものであった。当然「モンペ」を知らない日本人などいなかったのではなかろうか。

 日中戦争の頃はまだ国防婦人の会などでも、着物の上にエプロンを着て、肩がけに「大日本国防婦人会」などと書いた襷をかけた姿が見られたが、太平洋戦争の時代になると、戦争中なので動き回り、働きやすい格好として、「モンペ」が流行ったのは当然であっただろう。したがって、戦争を経験した日本人なら「モンペ」は全ての女性の必需品であった。

 戦争を経験した私は、当然「モンペ」と言えば、この「モンペ」しか知らなかったが、今や「モンペ」とは「モンスタペアレント」の省略形であり、今の若い人たちは、もう昔の我々の時代のモンペを知っている人の方が稀なようである。時はどんどん進み、世界もどんどん変わっていくようである。それにつれて言葉も変わっていくようである。

世界はアメリカのベネズエラ侵略に抗議しよう

 アメリカは麻薬運搬を口実に、ベネズエラの船舶を攻撃し、何人もの乗組員を殺害してきたが、今度は宣戦布告もなく、アメリカ議会の承認もないままに、軍を使って、直接ベネズエラの首都カラカスを攻撃し、大統領とその妻を拘束して、アメリカに拉致し、麻薬犯罪で法の裁きを受けさせるということになった。しかも、次の政権が安定するまで、アメリカがベネズエラを運営し、石油もアメリカが管理するという。明らかにに石油権利奪取の侵略である。

 昔から、アメリカは勝手に南北アメリカは自分の裏庭と決めているようで、これまでにも中南米の国々に対しては、方方で、あからさまな干渉や政権破壊などを繰り返しているから、今回に事件もその一連の流れのもとで行われたのであろう。まさにあからさまな侵略行為である。

 他国の首都へ何の断りもなく侵入し、その国の大統領とその妻を拉致して、アメリカに連れ去るという行為は誰から見ても、どう理屈をつけようとも、明らかに国際法に違反するし、世界の国家間の相互認識、相互尊重を覆すものであろう。

 ところが、このあまりにも明白な事実にも関わらず、世界の反応はどうだろう。ロシアや中国などの非難声明は当然としても、ヨーロッパや日本など、西側陣営と言われる国はアメリカに気を使って非難の声さえあげられないでいる。日本政府もアメリカに遠慮して反対の声をあげていない。

 こういう反応を見れば、アメリカはますます増長して、南北アメリカは我がテリトリーとばかりに、無法な行動を続けることになるであろう。ウクライナやガザの悲惨な現実が治らないうちに、今度は米州でも、新たな悲劇が繰り返されることになってきた。

 世界の良識ある人々は、この余りにもあからさまなアメリカの国際法違反に対して抗議すべきではなかろうか。

無神論者の「初詣?」

 毎年元旦の朝は、3社巡りと称して、朝早く、まだ暗いうちから、近くの伊居太神社、呉服神社、八坂神社を巡り、その後、猪名川の堤で初来光を迎えたものであったが、ここ数年はもう体力が劣ろえ、そこまで足を伸ばすことも出来なくなってしまった。それでも呉服神社はすぐ近くだし、氏子ということにもなっているので、毎年正月の様子を見に行っている。

 ここまで読むと、何と日本人的で、信心深い人かと思われるかも知れない。しかし、私は、あの戦争以降、神も仏もなくした無神論者なのである。それでも散歩の目安には、神社や仏閣などが最もわかりやすい目印になるので、利用させて貰ってるいるだけなのである。  

 従って、他人の信仰を邪魔しないようには注意し、神社やお寺に対する他の参拝者たちの迷惑にならぬようには心掛けて、利用させてもらっているわけである。身を清め、手洗いで口を注ぎ手を洗ってから、神前で本坪鈴を鳴らして、二礼、二拍、一礼、礼のようなお参りはしないが、建物や環境の維持には配慮している。古い歴史も尊重している。

 近くの呉服神社は商売熱心で、社殿は新しくしたし、昔、小さかった恵比寿神社の建物を大きく立て直して、恵比寿まつりの客寄せにも熱心である。その他、七五三や知恵の輪くぐり、などの年中行事にも力を入れている。最近は近くでのパワースポットにもなっているとか。

 そのためかどうか、以前は初詣の人もさして多くなく、少し朝早ければ、ご神酒のサービスなどがあっても、初詣客もそれほど多くなく、比較的閑散としていたが、この2〜3年は初詣の客も大幅に増えたようで 、小さなな境内には入りきれず、外の道に延々と行列が続くようになっている。

 昔は参拝者が多く押し寄せても、列を作るようなことはなく、皆が一斉に神殿の前まで行って横に広がり、社殿の外を埋め尽くすように押し寄せ、神社の方でも、臨時の賽銭箱を横の方にも置き、横の方からでもお参り出来るようにしていたものだが、最近は長い行列を作って、待ってでも、皆が一人づつ社殿の礼拝場所まで上がり、本坪鈴を鳴らしてお参りするので、長い行列ができるようである。

 今年はどのぐらいの行列だろうと昼過ぎに見に行ったら、案の定、行列は神社の門からはみだして延々と続き、駅近くまで並んでいた。それも皆、当たり前のような顔をして、イライラすることもなく、それぞれに話したりしながら、ゆっくり待っているではないか。

 同じ初詣と言っても昔とは様変わりしたものである。