中国とは仲良くしよう

 高市首相の「台湾有事の発言」以来、中国との関係が拗れてしまい。最早、容易に回復しそうでなくなってしまっている。日本も台湾を中国の一部として認めた上での関係が続いてきたのに、明らかな高市首相の失言で拗れてしまったのである。

 しかし、中国は動かしようのない隣の大国であり、何処よりも歴史的な交流も深く、文化的にも多大な影響を受けてきた最も関係の深い国である。しかも、今や中国はどの面でも、アメリカに次ぐ大国となっている。それに何よりも日本の最大貿易相手国でもある。

 譬へ日本がアメリカの属国で、アメリカの支配下にあるにせよ、中国が巨大な無視出来ない大国であることは、アメリカも認めている否定しようがない事実でもある。

 八十年昔に、未だ発展の遅れていた中国でさえ、日本軍は征服できず、逆に遂には戦に敗れたのである。その上、蒋介石主席によって日本の侵略の賠償まで免除されったのである。ましてや、近未来に近未来に戦争をしても、最早勝てるはずもない。

 日本の脆弱性も考慮すれば、資源に恵まれない食料自給率38%に過ぎない島国は外からの供給がなければ、たちまちお手上げである。しかも領土は狭く、海岸線に原子炉が並んでいるとあらば、空や海からの攻撃にも弱い。

 高市内閣はアメリカの指示によって、軍備増強に余念がないが、アメリカは武器は売りつけても、決して日本を守ってはくれない。どう見ても、中国と戦争して勝てるわけがない。先の大戦の教訓を知るべきである。

 高市内閣は軍備増強し、日本にまで中国敵視を押し付けようとするアメリカに先導されているが、日中間には戦争しなければならないような矛盾は何もない。「遠くの親戚より近くの仲間」という諺もあるように、近隣国家と仲良くし、平時から友好関係を深めておくことが我が国にとって平和や発展に備える最も重要なことである。

 中国とは仲良くすることであり、決してアメリカに乗せられて戦争など考えてはならない。アメリカは武器は売っても、決して助けてはくれない。

また戦前がやってくる

 最近は、だんだんと戦前の日々がが戻って来る感じをひしひしと感じさせられる。

 先の大戦で300万人からの同胞が殺され、国中焼け野が原になり、国土は荒廃し、国民は家族を奪われ、家を失い、食うにも困り、ララ物資とかいう牛の餌まで貰って食い繋ぎ、やっと生き延びるような時代を経て、もう戦争はこりごりだ、2度と戦争はしませんと誓ったのが、まだ昨日のことのように感じられる。

 戦争を経験した人たちが亡くなり、戦争を知らない世代ばかりになってきたが、戦後の平和憲法と民主主義のおかげで、八十年もの長い間、平和な生活を続けてこられたことが如何に有難いことだったのかを知るべきであろう。田中角栄氏が戦争を知っている世代が生きている間は大丈夫と言ったり、宮沢喜一氏が日本は外国に武器を売って儲けなければならないほど落ちぶれていないなどと言えたのも平和が続いたお陰である。

 思わぬ犯罪や事故、地震や台風などもゼロではないが、毎晩安心して寝れるのは平和であってこそである。夜毎、空襲で逃げる準備までして寝る必要もない、爆弾や焼夷弾が落ちてくる心配もない。安心して趣味や勉学にも没頭出来る。仕事の重圧で、それどころでないと感じられる人もいるかも知れないが、命の危険まで考える人は稀であろう。

 平凡でも同じような日を繰り返せるのが平和である。戦争は急に始まるものではない。長い間に少しづつ少しづつ積み上げられて、ある段階を超えると、もはや誰にも止められなくなるものである。

 朝日新聞の六月二十二日の俳句欄に「戦前のような戦後八十一年目(神奈川 延沢好子)」という句が載っていた。まさしく最近の世相を表している。戦前の有名な句も思い出される。”兵隊が廊下の隅に立っていた”とかいうものである。戦争につながる出来事は小さなものでも見逃してはならない。

 先の戦争の敗戦のおかげで、この国ははアメリカの植民地にになってしまい、以後、八十一年後の今日までそれが続いて来たが、ただ良かったことは、戦後に出来た平和憲法のおかげで、2度と戦争をしないで、平和な生活を続けてくることが出来たことである。

 せっかく勝ち得た平和である。何としてもこの平和を守り続けたいものである。

あまりにも情けない高市内閣

 トランプ大統領が国際司法裁判所(ICC)を潰すように指示したのに対し、所長が日本人であり、これまで日本が肩入れしてきた組織であるにもかかわらず、高市首相は「残念だ」と言うだけで、何ら反対の意見表明さえしていない。

 このICCは国連とは一応別の組織らしいが、アメリカ、中国、ロシアなどは加盟していないが、世界で125ヶ国が参加している、世界の犯罪摘発機関で、個人を対象としている組織である。ロシアのプーチン大統領やイスラエルのネタニヤフ首相に対して、すでにに逮捕状を出している。

 おそらく、ネタニヤフ首相の逮捕状も関係しているのであろうが、トランプ大統領自身の逮捕状も恐れ、何とか潰そうとしているのだとも言われている。ルビオ米国務長官は制裁の理由を「ICCの管轄権に同意していない政府高官を捜査や逮捕、訴追しようとする取り組みに直接関与した」と言い、「あらゆる手段を駆使してICCを解体する」と表明している。同盟国にも同調を求め、ICCへの圧力を一段と強めようとしている。

 国連や欧州連合(EU)などは、今回の制裁に対し、赤根氏らの支持を表明し、反対の立場を鮮明にしているが、一方、今年1月に官邸で赤根氏と面会し、支援を表明していた高市早苗首相は、「大変残念だ」と言うだけで、トランプ大統領に対しては何も言えず、沈黙したままである。当然国内からも非難の声が上がっているが、政府は黙したままである。トランプ大統領の行動を容認するつもりであろうか。

 せめて赤根所長も求めるように、日本は米国と対話をして欲しいものである。制裁は独立した司法への侵害だと伝えるべきであろう。

 それすら出来ないことは、トランプ大統領には何でも従うことを意味し、これまでの日本の基本的な中立的な立場を否定し、何でもアメリカの言う通りに従うことを意味するのではなかろうか。その先にはアメリカの言われるままに戦争に巻き込まれ国を滅ぼすことにもなりかねないのではなろうか。

 

落ちぶれた日本

 1972年当時の首相、宮沢喜一氏は「日本は武器を売って儲けるほど落ち振れてはいない」と言った。ところが、高市首相は殺傷能力のある武器の輸出も可能とし、小泉防衛大臣は早速、日本の自衛艦のフィリピンへの売却に走り、イギリス、イタリアとの共同による戦闘機の開発をも進めている。日本の産業界も、この際、これに乗って武器輸出で金儲けをしようとしている。

 武器は一般に高額な消耗品であり、どんどん更新されるもので、しかも値段があってないようなものである。必要とあらば、いかに高くても売買される。こんないい商売はない。

 平和憲法に守られて、アメリカの従属的な同盟国でありながらも、平和国家として認められて来たのに、ここへ来てアメリカに言われるままに、国防費を増やし、先制攻撃も可能な体制にしようとしている。

 しかし、ちょっと考えた欲しい。日本の周辺で戦うとすれば、差し当たり、中国か北朝鮮、ロシアであろうか。今や三国とも核保有国である。小さな日本など水爆の5−6発もあれば北から南まで全てが破壊されてしまう。そうでなくても、若狭湾の海岸に並ぶ原発が海からの攻撃で破壊されれば、もうそれだけでお手上げであろう。

 また島国であれば、海上封鎖で物資の供給が止められれば、忽ちお手上げであろう。現在の日本の食料の自給率は38%に過ぎないのである。アメリカが守ってくれるというのも全くの嘘である。先の大戦のフィリピンを見ても分かるし、ウクライナ戦の始めの頃には、次は日本だと言われたぐらいである。米国が多大な犠牲を払ってまでして、日本を守ってくれる筈がない。

 日本が戦力を高めても、日本が外からの攻撃には弱い国であることも知っておくべきであろう。戦争の準備よりも、平和な相互依存、共栄の関係を築く方が遥かに日本を守り、日本の繁栄をもたらす手段であることを知るべきである。

 

 

五感の衰え

 歳とともに五感の衰えが進み、生活に不便を感じるようになって来たことについては、既に何回も書いた。初めのうちは不便もあるが、見違え、聞き違えなどの間違えをかえって楽しむ余裕もあったが、五感の衰えは止まることを知らず、密かにどんどん進んでいっているようで、最早それを楽しむゆとりもなくなって来ているようある。

 五感といっても、臭覚、触覚、味覚などは衰えても失うものが比較的少ないので、諦めることも出来るが、視覚、聴覚となると、直接日常生活での差し障りが大きいのでそうはいかない。

 視力の低下は眼鏡で補ったらと思われるかも知れないが、そう簡単に済ませられるものではない。家にいるだけでも、居間で安楽椅子に座ってテレビを見るだけでも、以前は良く見えたのに、今では最早それでは字が読めないし、画像もボケることになり、はっきり見たければテレビの前に座り込んで見なければならなくなってしまった。

 新聞を読むにも、強度の老眼鏡をかけても見辛く、大型の拡大鏡で読まなければ読みづらい。それでも周囲がボケるし、絶えず動かさねばならないので、どうしても目が疲れるし、手もしんどい。昔だったら何ページも続けて読めた本も2−3ページもめくれば疲れて一休みしなければならない。歯痒さに腹が立つ。

 それに難聴の問題が重なって来るのである。初め難聴は音だけ大きくすれば良いかと思っていたのは間違い。聴力というものは脳で音を聞き分けることが重要なのだが、長い間の難聴で脳の聞き取りが悪くなっているので、音の大きさだけではなく、音を聞き分ける力の低下が問題なのである。百万円を超える補聴器を買っても、音は大きくなっても、聞き間違えが多く、それはなかなか治らないのである。

 その上、耳に補聴器をかけると、その上にメガネのツルが来るし、今時はマスクの紐もかけねばならない。三重ににかけていると、今度は外す時に三つが絡み合って、外すのに一苦労させられる。補聴器を外せば聞こえないし、かければ聞こえ方は良くなっても、わずらわしさが増える。

 眼鏡にしろ、補聴器にしろ、マスクにしても、一つならそれ程問題はなくとも、三つも重なると、そのことが問題になる、外すとなると、三つがこんがらがるので慎重に外さなければ、百万円を落として台無しすることにもなりかねない。その上ここ2〜3日は口腔の粘膜が入れ歯のためか痛むので総入れ歯も外している。

 眼鏡、補聴器、入れ歯、それに歩行補助器と、多くのものに助けて貰っても、若い時のようには行かない。それでも、文句を言いながらも、何とか日常生活が成り立っているのもこれらのおかげなのだから感謝しなければならないであろう

先を行く女房について歩く

 昔からせっかちな私は歩くのが速かった。いつでも少し前屈みで急ぎ足歩いていると言われていた。歩くのは好きだったし、いつも人を抜かして速歩で歩いていた。y箕面の滝まで毎月のように行っていたが、いつも前を行く人をどこかで追い抜いて行くのが楽しみでさえあった。

 従って、女房と一緒に出掛けても、いつも私が先で前を歩き、後から女房が追っかけてくるような格好であった。阪急で梅田に着いた時など、人混みのホームを歩くので、後ろの女房にわかるように、いつも片手を上げて改札口に向かっていたが、それでも時に雑踏にまぎれて見失い、お互い迷子になっててしまったようなこともあった。当然一緒に歩いていても、つい私が前で女房が後ろということになりがちであった。

 ところがである。歳をとって91歳の年末に突然、間欠性破行になり、紆余曲折の後、トライウオーカーなる歩行補助機を使うようになり、体力が落ちてくるとそうは行かなくなってしまった。それでも、せっかちな性格は変わらないので、つい急ぎ足で歩き、ウオーカーが道の段差に躓いて転倒したりしたこともあったが、97〜98歳にもなって来ると、体力が衰え疲れやすくなり、自然と歩く速度も遅くなって、もう昔のように速くは歩けなくなってしまった。

 昔は人に追い抜かされることなどなかったのに、 今や後から来る人が次々と私を追い越して、忽ち遥か前方まで行ってしまう。スピードを上げて少しでもついていこうとしても、足が拒否する。どこかへ行った帰り道などでは、疲れているせいもあり、余計に足が遅くなる。女房と一緒に帰宅する時も、昔はいつでも私が先に門戸を開いていたのに、今では全く逆になってしまった。

 女房が先に門戸を開き、玄関の扉を開いてから、私が辿り着くことになる。情けないがどうしようもない。自然の掟に従うよりない。女房ももう92歳、いつどうなるやらわからない。自然の成り行き任せるよりない。

 歩くのが遅くなっても、まだ散歩などでで外出できることを有り難いことだと思っている。

 

 

 

 

 

戦前の日本語

「あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも

やいゆえよ らりるれろ わいうえお」が今の平仮名であるが、私の子供の頃は 「わいうえお」は「わゐうゑを」であった。片仮名でも、「ワイウエオ」ではなく「ワヰウヱヲ」だった。

 文章で書く時も「要る」は「いる」で「居る」は「ゐる」、「駅」は「えき」だが「絵」は「ゑ」だった。わ行の「ゐ(ヰ)「ゑ(ヱ)「を(ヲ)」は、もとはWを含んだウィ、ウェ、ウォような発音を持っていたようである。

 我々の子供の頃は玄関をゲンカンではなく、はっきりとゲンクァン(genkwan)と発音している人が多かった。回転もカイテンではなくクワイテンと発音されていた。豪華絢爛もゴウクァクエンランだった。

 発音は時とともに変わるもので、例えば最近は 敬礼(ケイレイ)は多く(ケーレー)と発音されるが、黎明(レイメイ)が(レーメー)、命令(メイレイ)がメーレーと言われることが普通になって来ている。

 今でも和歌や俳句などではこの旧仮名や発音が用いられることがあるようである。また蝶々のことは「てふてふと」書くのが普通であった。これは中国語の蝶々の発音が「てふてふ」に近く、それから来ているらしいが、今でも「ちょうちょ」でなく「てふてふ」と描かれることも珍しくない。

 最近得た知識では、今のハヒフヘホは奈良時代にはパピプペポだったそうで、平安時代になるとファフィフゥフェフォになり、室町時代から江戸時代にかけて次第に現在のハヒフへホが定着して来たのだそうである。

 また、戦前の頃は、まだ普通に話している時のような日本語を口語体と言い、その他に書き言葉として、古くからの文語体がまだ用いられており、男子の書状などはまだこの昔からの候文で書かれることも多く、戦争中私たちも、海軍兵学校から故郷の大阪の父親に当てた近況報告などでも、この文語体を用いていたものであった。

「拝啓御父上様:時局益々多難な折、御父上様におかせられましては益々ご健勝の事と存じ奉り候。さて・・・」と言ったようなものであった。書いていて、何だか他所他所しい感じがしたものだったが、当時はまだそれが男の普通の手紙であった。

 私が生きている間の短い時間の間にも言葉もずいぶん変わってしまうものである。