鎮守の森

「村の鎮守の 神様の 今日はめでたい 御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ  朝から聞こえる 笛太鼓  今年も豊年 満作で 村は総出の 大祭  ドンドンヒャララ ドンヒャララ」

 今も忘れられない昔懐かしい童謡である。しかし、今では神社はあっても、昔のような鎮守の森とその周りの村の氏子といった関係はすっかり薄くなってしまっているようである。

 私が子供の時に住んだことのある箕面には、八幡神社と少し離れた所にある阿比太神社という二つの神社があった。どちらも新興の住宅地に囲まれて来ていたが、まだ昔からの部落も近くに残っており、それらの農家の若者も健在だったので、村と神社の関係も密接で、鎮守の森といった感じではなくとも、秋の神社のお祭りも、氏子の部落の人たちを中心に賑やかに行われ、子供達もそれを楽しみに待っていたものだった。

 まだ軍国主義の盛んな時代だったので、神社に毎朝参拝する人もあり、元からの村の人は勿論、新興住宅の人にとっても、何かにつけて神社は人々の生活の中に組み込まれており、日頃から神社と氏子の関係は密接で、それなりに神社は賑わっていた。

 秋のお祭りの時には大勢の人出で、出店も出て賑わったが、お神輿があったかどうかは覚えていない。しかし、お祭りの日には青年団の若者たちが、天狗の面を被り、両手に竹の筒を持ち、それを擦り合わせながら、子供たちを追いかけ回すような行事が行われたいた。竹の筒の端を細かく捌いたものを二本こすり合わせるとカサカサというような音が出るので、その音を出しながら天狗が走って来るというわけである。

 八幡さんと阿比太さんとは少し日をずらしてお祭りが行われていたので、片方が済んだらもう片方と、毎年二回子供達は場所を移動して、この天狗との鬼ごっこを楽しんでいたわけである。

  子供達は大勢集まって、天狗の来るのを見ては、皆で歓声をあげながら、あちこち逃げ回って喜んでいた。たとえ天狗に捕まっても頭を撫でられるぐらいのことなのだが、子供達は群集心理で半ば本当に怖がり、半ば面白がって追っかけっこをしていたものであった。

 もちろん、お祭りだから神社でも肝心要の神事やその他、色々なことも行われていたのであろうが、子供達にとっては儀式張った静かな行事などにはあまり関心がなかったで、何も殆ど覚えていない。

 出店なども沢山出ていた筈だが、駄菓子屋などの出店に並んで、パチンコ台が4〜5台置かれていた姿だけが忘れられない。生まれて初めて見たパチンコ台であった。戦後になって、あちこちでパチンコを見るようになった時、いつもその原点として、その時の神社の境内のパチンコ台を思い出したものであった。

 パチンコといっても、今のようなものでなく、極めて素朴なもので、画面の右下にある穴からパチンコ球を指で一つ入れては、バネを右手で弾いて球を打ち、球が上へ飛び出して上から下がる時に釘などにひっかかりながら、落ちて適当な穴に入れば当たりで、下の口から球が5個ほど出てくる。もし打った球がどの穴のも入らず、一番下の穴に落ちてしまえばそれでおしまいというゲームであった。それが今のパチンコの原型であったのであろう。

 当時コリントゲームと言うのがうちにもあったが、パチンコ台を寝かしたようなものであった。平面的な板状なもので、同じように右端のコーナーから、棒で球を打って平面状に球を走らせ、いくつか設けられている穴に入ればよし、入らなければ手元の真ん中にある穴の落ちるゲームであった。

  数年前に、両方の神社を訪ねたことがあったが、八幡さんは、ただ大きな木々に囲まれた薄暗い広場の奥に、しょぼくれた社殿がぽつんと立っているだけで、神主さんもいないのか人っ子一人いない感じであったし、阿比太さんは住宅に隠れて、何処にあるのかさえ分かりにくい有様であった。

 鬼の面を被った青年たちに追っかけられた子供達が歓声をあげて逃げ回ったあのお祭りはいつ途絶えってしまったのであろうか。恐らく、あの戦争で村の若者たちもいなくなり、戦後の復興や開発で村も街となり、新しい人たちばかりになり、もうお祭り自体を覚えている人も殆どいなくなってしまったのではなかろうか。

 

昆虫採集

 箕面の滝へ行かれたことのある人はご存知であろうが、途中、瀧安寺の手前に昆虫館という、昆虫の展示や飼育をしている施設がある。これは昔、箕面が昆虫の宝庫であった名残である。私の子供の頃は、この昆虫館のある場所には、鯉料理を出す料理屋があり、すぐ前の川床には生簀が作られており、いつも多くの鯉が泳いでいた。

 それは兎も角、箕面の山は、私の子供の頃は、昆虫類が多いのでその観察や、採集にとって有名な場所であった。夏休になると、阪急の箕面の駅の前では、電車が到着するのに合わせて、「昆虫採集の方はお集まり下さい」という声が聞こえ、大勢の人が集まっては、一団となって箕面の山に昆虫採集に出かける姿が見られたものである。

 我々地元の子供たちは、そんな団体とは関係なしに、三々五々、連れ立って、毎日の様に、細めの竹に虫取り網をつけて担ぎ、取った昆虫を入れる小さな虫籠に紐をつけて肩から掛けて、山中を駆け巡ったものだった。

 一番のお目当はクロアゲハやアオスジアゲハなどの少し大型な蝶々であったが、飛んでいるのを捕まえるのは難しいし、なかなか網で捉えられるぐらいの所に止まってくれない。こんなのが一つでも捕まえられたら御の字だったのだが、なかなかそうはいかない。モンシロチョウや、黄色モンシロチョウの様な小さい蝶の方が多いし、取りやすかったので、それらで我慢しなければならない日も多かった。

 また、トンボも結構多く、ムギワラトンボやシオカラトンボなどが一番ポピュラーで、よく捕まえたが、オニヤンマの様なひと回り大きなトンボを捕まえたかった。しかし、ヤンマの類は高く飛んでいることが多く、なかなか取れそうなところに止まってくれないので、滅多に取れなかった。

 山を歩けば、偶然に古くなって半ば腐りかけたような倒木の切り株の裏にカブトムシがいるのを発見して胸をワクワクさせたようなこともあった。こうして取った昆虫を家に帰ってから、籠から取り出して動くのを観察したり、死んだ昆虫を並べて見たりするのが、また楽しみであった。 

 今でもそうだろうが、小学校の夏休みの宿題なるものがあったが、採集した昆虫をガラスのついた箱の中に、胴体を針で刺して固定して並べ、昆虫の標本箱を作ったものであった。蝶やトンボの他にも、蛾や蝉類、蜂やカブトムシにクワガタ、カミキリムシ、バッタやコオロギ、てんとう虫なども標本にしたものであった。

  蝉は箕面の山にもいたが、もっぱら家の近くで取ったことが多い気がする。夏の初めは、先ずは、少し小型ののニイニイゼミから始まった。これは比較的低いところに止まることが多いので、手で簡単に捕まえ易かった。本格的な夏になると、当時はもっぱらアブラゼミが主流であった。これは長い竹の棒を二本ぐらい繋いで先にとりもちをつけて高い枝に止まっているのを捕まえた。

 最近はクマゼミなど透明な羽をした蝉が主流になって、アブラゼミが減ったようであるが、当時はアブラゼミが多かったので、クマゼミが貴重な対象であった。そして、お盆が過ぎると法師ゼミが「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴き出し、夏の終わりを告げるのでった。夏休みももう終わりだぞとせき立てられるような感じがしたものであった、

 その頃になると、夕方に夕日に向かって歩いていたりすると、赤とんぼの群れがすぐ頭の上あたりをスイスイと飛んでいたことも忘れられない。そのうちに夜になると、何処からかコオロギなどの虫の声が聞こえて来たりしたものであった。

 最近は郊外に住んでいても、網戸のために蛾もカナブンも家の中に入って来なくなったし、蝶やトンボもめっきり減ってしまったが、子供の頃は今よりもずっと人と昆虫が身近にいて、お互いの交流があったような気がする。しかし、それも今ではもう遠い過去の思い出の中に残っているだけである。

 いつだったかの朝日新聞の歌壇欄に 載っていた、短歌にも下記のようなものがあった。

 開発かはた乱獲かめっきりと昆虫減りぬ夏の山野に(舞鶴市 吉富憲治)

  また、中学校のクラスメートであった手塚治君が、ノートにぎっしりと昆虫の緻密な写生を沢山描いていたことも思い出される。

 

こどもの頃の教育勅語

 小学生の頃の私にとっての教育勅語は、何かわからないものだが、大変大事なものらしく、祭日毎に講堂で立って聞かされ、いつもは校庭にある奉安殿に入っており、毎日その前を通る時にはお辞儀をして通ることになっているものであった。

 奉安殿は普段は二宮金次郎の像と並んでいて、特段気にすることもなかったが、祝日の朝だけは違っていた。礼服を着た校長先生が2〜3人の先生を引き連れて奉安殿の前に現れ、最敬礼をして、白手袋をしてから、扉を開け、前屈みになって恭しく勅語の入った箱を取り出し、それを三宝の上に乗せ、それを捧げ持った姿勢のまま、静かに校庭を横切って、講堂の演壇まで運んで行くことになっていた。

 その儀式はまだ生徒たちが登校して来るよりも前に行われていたと思うが、私は家が近かったので、たまたま早く学校へ行ったためかどうか知らないが、そんな場面を見たことがあった。当時は学校が焼けても、命と引き換えにでも、勅語だけは守るのが校長の使命とされていた時代であった。

 その頃の学校は今のように祭日でも全く休みではなく、先生も生徒も皆が学校に集まり、講堂に整列して教育勅語を聞き、校長先生の話を聞いて終わりという式典があり、それが終わって、やっとその日の休日が始まるのであった。ただ、式の後に紅白の饅頭が配られたので、生徒たちはそれが楽しみで、饅頭を貰うや否や、散りじりに走って家に帰ったものであった。

 このように教育勅語は祭日の式典には不可欠なものであったが、その内容については、子供達にとってはチンプンカンプンで、平素の学習にもあまり関係のないものであった。当時の教育方針は「論語読みの論語知らず」のように、先ずは訳が分からなくても、聞かせて、慣れさせ、暗記させるのが先ということにでもなっていたのであろうか。小学生の時に教育勅語の内容について逐一説明を聞いた記憶はない。ただ、高学年になるにつけ、「神武、綏靖、安寧、威徳・・・」という長い長い天皇の系譜とともに、教育勅語も内容の理解よりも先に、暗記が求められたように思う。

「朕惟うに我が皇祖高宗国を肇むること高遠に・・・」と言われても、始めから何のことかさっぱりわからない。ワタシとかオレとかワシならわかるが、天皇ともなれば変な言葉を使うものだなと思ったものだった。隣の友達と「天皇がチンだったら、皇后ならどう言うか知ってるか」などと小声で喋ったりしたものであった。

 それは兎も角、祭日毎に子供達は教育勅語を聞かねばならなかったが、聞かす学校の方も大変であった。恐れ多い天皇のお言葉を読む式典に、些細なことであっても間違いがあってはならないというので、祭日の前日には生徒たちを集めて予行演習まで行われていた。

 その時は教頭先生が演壇に立って「朕惟うに」だけを言って皆に「最敬礼」と号令をかけ、子供達に一斉に頭を下げさせる。その上で「そこの子頭が高い」などと言って子供達をチェックし、最敬礼が終わっても、しばらく頭を下げ続けさせた後に「御名御璽」と言って、「もう一度最敬礼」「もう一度頭を下げて」「はい終わり」「はい頭を上げて」と促す。生徒たちは頭を上げた途端に、それまで我慢していたので、一斉に咳をしたり、鼻をすすったりするのが普通であった。

 そして式の本番になると、校長先生が演壇に立ち、横に立った教頭先生の持ち上げた三宝から勅語の入った箱を取り、静かに演壇の上に置く。それから最敬礼をして箱を開き、勅語の巻物を取り出し、恭しく紐を解いて巻物の端にかけ、左手で巻物の軸を持ち、右手で慎重に巻物を少しずつ開き、開き終わったら両手で捧げ持ち、そこで「最敬礼」と言う号令がかかり、皆が一斉に頭を下げ、おもむろに「朕惟うに・・」が始まるのである。列席した者は全員気を付けの姿勢をとったまま、ずっと頭を下げて黙って聞かねばならなかった。兎に角、恐れ多いもので、万一にも誤りがあってはならないので、校長先生といえども真剣であった。

 子供達は教育勅語の朗読の初めに最敬礼をした後も、朗読が続く間頭を下げて黙って聞かねばならないのが苦痛であった。訳は分からないし、結構長いので退屈し、もう早く終わってくれないかなあと思いながら、怒られないように、そっと少しだけ頭を上げて、上目使いに周囲の様子を眺めることが多かった。やっと「御名御璽」になって、もう一度最敬礼して終わりで、やれやれというところで、皆が一斉に咳をしたり、鼻をすすったりしたものであった。

 この「御名御璽」については、子供の時にはどういう意味か分からず、天皇の言葉の終わりで、やれやれというサインとばかり思っていたが、長じて名前と印だと知ってを知り「なあんだ」とびっくりしたことを覚えている。

 教育勅語は嫌という程聞かされ、暗記してよく知っているが、当時どうして子供達にもその内容について、一つ一つの親切な説明がなかったのか、今でも不思議に思っている。 

 

 

 

出征兵士を送った日

 箕面小学校の3年生の夏、1937年7月7日に盧溝橋事件が起こり、初めは不拡大方針だと言われていたが、次第にこじれて行って、しまいには「蒋介石を相手にせず」などとまで言いだし、以来、日中戦争が始まり、とうとうその時から、1945年の夏までずっと戦争の時代になってしまった。当時は宣戦布告もしないままだったので、1930年の満州事変やそれに続く上海事変に倣って支那事変という呼称を使い続けていたのである。 

 その頃から盛んに「東洋平和のために」「東洋平和のためならば」と始終聞かされ、子供心に悪い奴を平らげて平和にするのだなという風に理解していたが、それと同時に「満州は日本の生命線だ」ということが繰り返し叫ばれていたが、どうして日本から遠く離れた大陸の満州が日本の生命線なのか不思議に思ったものであった。朝鮮の併合は日本のすぐ側なので、まだ理解出来ても、満州が生命線とはなぜなのか子ども心に疑問のままだった。 

 それはともかく、戦争が始まると、新聞は毎日のように日本軍がどこそこを占領したとか、次は何処を攻めているなどという記事が出て、地図を見て、そこに日の丸の印を入れたりして喜んでいた。出征兵士の話や銃後の守り、千人針、慰問袋などの話も出るようになり、毎月7日は「興亜奉公日」と決められた。

 そのうちに、箕面村からも出征兵士が出ることになり、最初の人の時には、村を挙げての出征兵士の壮行会が行われた。確か上等兵であったように思われるが、いよいよ出発する日には、「XX上等兵万歳」と書かれた幟を立て、軍服姿に身を固め、武運長久と大書されて、多くの人の寄せ書きが書かれた日の丸を肩から斜めにかけた兵士を囲むように、村長さんを先頭に、在郷軍人の軍服姿の老人や関係者の人たちがぞろぞろ続いて、大勢で牧落の駅へやって来た。

 小学生の子供達も動員されいて、梅田へ向かうホームとは反対側のホームに整列させられ、皆が並んで「雲湧き上がるこの朝、旭日の下・・・」と斉唱しながら、日の丸の小旗を振って、電車に乗って出征していく兵士を見送ったものであった。大勢の人たちが見送っていたが、家族などが何処にいて、どうしていたのかは、分からなかった。

 しかし、こんな行事はは初めだけで、やがて次々と青年たちが箕面からも徴兵されていったのであろうが、もはや学童が動員されることもなく、後になればなる程、見送る人も少なくなり、身内の者や親しい友人ぐらいだけになっていったのではなかろうか。

 こうして多くの出征兵士が出て行った後には、やがて今度は戦死者の白木の遺骨の箱を抱いて静かに帰る人の姿が見られるようになり、墓地には「故XX上等兵の墓」と刻まれた新しい墓が出来、その人の家には表札の横に「誉の家」の張り紙が貼られるようになったが、それらについては話す人も少なかった。

 それとともに、世の中は次第に戦時色を増し、世間でも軍刀をぶら下げた将校の姿が目立つようになり、学校の先生も戦争のことを話すことが多くなった。戦争の話をしに来る軍人なども現れた。子供達の遊びにも兵隊ごっこなどが増えたが、思い出すのは、興亞奉公日毎に、日頃生徒が新聞に載った皇族の写真を切り取ったものを持参して、集めて校庭で燃やすことが行われていたことである。

 当時の古新聞紙は今と違って貴重なもので、野菜を始め色々なものの包装などにフルに再利用されており、切ってトイレットぺーパーにも使われていたので、天皇の写真で尻を拭いてはバチが当たるというので、こんなことも行われていたのであろうか。

 嫌な時代の始まりであったわけだが、当時は戦争といっても地図でしかわからない遠い中国大陸が戦場であり、まだ我々子供達には何も分からず、南京占領で旗行列をして祝ったり、戦地から帰った兵士たちの自慢話などを聞かされていたものであった。

箕面小学校時代

 先に書いたように、私は小学1年生の時は西宮だったが、小学校2年と3年の間は箕面で暮らし、さらに4年、5年の間は一旦東京に行っていて、5年の3学期からまた箕面へ戻って、卒業までいたので、子供の時の思い出では、箕面の頃が一番多く、振り返ってみると、箕面が一番故郷のような気がする。

 その頃の箕面は大阪近郊の郊外住宅の開発が進んでいた頃で、新たに拓けた住宅地と、昔ながらの農村が混じり合っているような場所であった。箕面市はまだなく、私の家の住所は大阪府豊能郡箕面村字牧落百楽荘といい、阪急電車箕面線牧落駅の近くで、箕面小学校の正門の通りで、学校から百メートルも離れてなかった。百楽荘と言われる住宅地は二筋三筋ぐらいのもので、駅前あたりと百楽荘のはずれの八幡神社の近くで、昔からの部落に繋がっており、その他の周辺一帯はまだ田圃や畑ばかりであった。

 当時の箕面村には小学校はまだ一校しかなく、生徒も半分は住宅地の子で、あと半分は地元の子たちであった。地元では中村とか西川姓が多かったので、苗字でなく名前で呼んだりしていたものだった。当時から箕面の山一帯も箕面村だったので、一番遠くから来ている子は、箕面の滝勝尾寺の中間ぐらいの奥にあった「政の茶屋」から通って来ていた。6年の時の担任の先生は隣の萱野村から自転車で通って来ていた。

 小学校は村役場に続いた敷地にあり、広い校庭の続きには、青年学校や女子の裁縫学校などもあった。小学校の門を入るとすぐ右に二宮金次郎銅像が立っており、その奥に鉄棒の置かれた砂場を挟んで、教育勅語を収めた奉安殿があった。

 校舎は講堂を除いて、三つの建物からなっており、広い運動場の奥の正面にある大きな鉄筋二階建てが本館とでもいうべき建物で、そこに校長室や教員室などの中心機能があり、5、6年生の教室だけがその中にあった。3年、4年生の教室は本館と直角の方向に建てられた古い鉄筋の校舎にあり、更に1年生と2年生は本館の裏にあった古い木造平屋建ての教室で授業を受けていた。

 その木造校舎の北側には、柱と腰板だけの開け広げの廊下が東西に走り、建物の北側はもうすぐそこから見渡す限りの田圃が広がり、その向こうに箕面の山が望め、細い道が一本だけ通っていて、山裾の箕面駅近くの部落に通じていた。東北の方角には現在箕面市役所が建っている場所にあった灌漑池の堤も見えていた筈である。

 私は5人兄弟で、皆が殆ど年子で続いていたので、私が三年生の時には、六年生から一年生まで、一学年を除いて、全ての学年に兄弟がいることとなり、学校中の先生が我々のことを知っていた。そんなわけで、下の弟が一年生の時、家が近かったので黙って学校を抜け出し帰宅したことがあり、弟の担任の先生が先ず私の教室へ尋ねて来られたことがあった。

 今でもそうだが、学校のすぐ横を阪急電車が走っており、当時はまだ一両だけで走っていたと思う。学校と線路の間には今のような塀などもなく、校庭から少し坂を降ればそのまま線路に降り立つことも出来た。今だったら問題になるであろうが、電車が通る前に一銭銅貨を線路の上の置いて、電車が通って押し潰されてぺちゃんこになるのを見て喜ぶといったいたずらをした事もあった。

 電車がどのくらいの間隔で走っていたのか知らないが、のんびりした田舎の電車の風景で、乗客もまだ少なく、たまたま村長さんと電車で出くわして「村長さんこんにちわ」と挨拶を交わしたことを覚えている。校長先生も豊中から電車で通勤されていた。

 学校での勉強については、もう殆ど何も覚えていないが、毎朝校庭で全児童一緒の朝礼があって、先生も全員出席していたように思う。その中にまだ若い眼鏡をかけた先生がいて、濃い眉毛が両方下がり気味だったのが気になって、こっそり「8時20分」とあだ名をつけていたことを何故か思い出した。また、冬の雪のちらつく校庭を走っていた時、偶然右手の指が左手の中指にあたり霜焼けが破れて出血したことがあり、その傷跡が大人になるまでずっと残っていたのもこの頃だったはずである。

 なお、小学3年生の時に日中戦争が始まり、出征兵士を送り出したり、村の神社のお祭りで青年団の天狗に追いかけられたり、自転車で遠くまで出かけてタンポポを集め、タンポポの首切り合戦をしたり、箕面の山へ昆虫採集に行ったりと、その頃の思い出は多いがそれらについては稿を改めることにしたい。

貧しかった日本

 最近の若い人には想像もつかないであろうが、私たちが生きてきた戦前、戦後しばらくまでの日本は貧しかったし、まだまだ野蛮な国であった。戦後の荒廃時代は別としても、戦前だけを振り返ってみても、この国は間口だけを一所懸命に広げても、まだまだ奥行きのない後進国であった。

 結核が最大の死因であったし、伝染病や寄生虫多もかった。公衆便所なども少なく、道端での立ち小便は普通だったし、唾や痰などは道端へ吐き捨てるもの、ゴミは川に捨てるものであった。立ち小便防止に鳥居の絵があちこちに描かれていたのも象徴的であった。遊郭も公に認められており、若者もそこへ連れて行かれて一人前になったと言われたりした。冷害のあった年などには娘を売らねば暮らせない農家もあった。お祭りなどでの神社やお寺へいくと、入り口あたりには必ず乞食がいたことも忘れられない。

 今は普遍的に見られる電気製品などないに等しく、当時は電灯とラジオぐらいのもの。せいぜいあっても電気ストーブに扇風機、電気コンロぐらいであったろうか。電話も呼び出し電話というものがあり、それは近くの電話のある家の電話を自分の呼び出し電話の番号として、電話があれば知らせて貰い、その家へ行って電話を使わせて貰うわけであった。そういう呼び出し電話のためか、当時の電話器は家の玄関に置かれていることが多かった。

 冷蔵庫は電気器具ではなく、氷屋さんが配達してくれる氷を買って、それで冷やす冷蔵庫で、容量も小さかったので、西瓜を冷やしたりするには井戸や冷たい流水を利用していた。暑さに対しては、エアコンなどまだなかったので、扇子や扇を使うか、せいぜい扇風機で風にあたるのが精一杯で、あとは自然に頼るしかなく、天井の高い家の中や木陰の涼しい風が有難かった。暑い日中は水浴びや昼寝でもして、日が暮れたら夕涼みをし、兎に角、夏休みにはあまり働くなと言われたものであった。

 それでもまだ夏は良かったが、冬の寒さが大変であった。最近の家と違って、昔の日本家屋は夏向きに出来ており、隙間だらけの構造で、およそ冬向きではなかった。暖房といえば、囲炉裏があれば上等、あとは火鉢か炬燵で暖をとるぐらいしかなかった。一番良くないのは、便所が家の外にしかない所も多く、冬の寒い夜にも外へ出ていかねば用が足せないことであった。日本で脳出血による死亡が多かったのはそのせいだとも言われていた。

 田舎のあばら屋で破れた屋根から家の中まで雪が降り、目が覚めたら布団の上に雪が積もっていたという話さえ聞いた。それは兎も角、普通の家でも、朝、目が覚めて起きなければと思っても、寒いのでなかなか起きられないものであった。寒いので風呂に入って温まって寝るという人も多かったが、風呂も電気やガスで沸かすのではなく、家の外にある焚き口から薪で沸かすのが普通で、銭湯を利用する人も多かった。薪割りも一仕事であった。

 夜間など勉強するにも火鉢しかないので、沢山着込んで、火鉢を抱え込んだり、火鉢に跨ったりして暖をとりながらしたものだが、ついうとうとして火鉢にかざしていた手が火の上に落ち「アチチ・・」と思って目が覚めたり、居眠りしていて寒くて目が覚めたら、もうすっかり火鉢の火が消えてしまっていたというようなこともあった。

 顔や手を洗うのも、今のように蛇口から湯が出るわけではないので、冷水で我慢するか、薬缶で沸かした湯を差して、洗面器に入れた水を温めて使ったものであった。母の里へ行った時、貿易商をしていたので、当時はまだ珍しかった瞬間湯沸かし器があり、蛇口から湯が出る文明の利器に驚かされたものであった。未だに、その時見た湯沸かし器の青いガスの炎が忘れられない。

 暖房に乏しいこんな状態だったので、当時の子供達は、冬になれば決まって霜焼けあかぎれに見舞われたし、風邪をひいて咳をする子や、黄色い二本の鼻垂れ小僧もどこででも見られ風景であった。黒い学生服の袖口が乾いた鼻汁でテカテカに光っている子供も多かった。

 また当時は今と違って、赤痢や疫痢、腸チフスなどの伝染病がよく流行り、一緒に遊んでいた子供が疫痢になって翌日にはもう死んでいたり、腸チフスの子が折角回復してきていたのに隠れて何かを食べたために死んでしまったというような話も聞かされた。そんな訳で親から外での買い食いは厳しく止められていたが、友人と一緒にこっそり食べた自転車売りのアイスキャンデーの美味しかったことを今でも覚えている。

 水洗式トイレもまだなかったので汲み取り式で、農家の人や汲み取り屋さんが定期的に決まってやった来ていた。肥壺には大抵蛆虫がうようよ蠢き、蝿が飛ぶのが見えた。トイレは下から寒い風が吹き上がり、暗くて臭くて気持ちの悪い場所で、ゆっくり出来る所ではなっかった。小さな子供が肥壺に落ちる事故もあり、小学校で子供が行方不明になった時には、探すべきは近くの野井戸や便所が挙げられていた。

 戦前の貧しい農家などでは行動範囲も近隣に限られていたので、大阪の近郊であったにも関わらず、小学6年時に伊勢神宮へ修学旅行に行く時に初めて汽車を見たという子もいた。また、夏休みに日本海浦富海岸へ行った時、現地の子が姉弟揃って筒っぽの着物を着て、裸足で学校へ行くのを見て驚いたこともあった。

 戦前の日本は今よりはっきりした階級社会で、華族、士族、平民の別があった他、多くの会社でも、正規のサラリーマンと臨時の雇員、労働者の区別が、服装などの外見からだけでも明らかであった。農家でも地主と小作人の差も歴然としていた。その上、部落民や浮浪者、朝鮮人などの差別もひどかった。えた、非人などと言われた人もいた。

 戦前の日本は国全体としても貧しく、国庫の赤字は外国への出稼ぎ労働者たちの国への送金でやっとバランスが取れる状態であった。戦前1億と言われた人口は朝鮮を含むもので、本土は約7千万人と言われていたが、こんな小さな島国で、こんなに大勢の人を養えるはずがないなどと言われていて、初めは南米へ、続いて満蒙へと積極的に移民を送り出したものであった。

 学校で先生が地球儀で赤く塗られた小さな日本を指して、「よくぞこの素晴らしい国に生まれたものだ」と言われたが、他にいくらでももっと大きな国が沢山あるのに、どうしてこの小さな国に生まれて良かったのか納得がいかなかったことが忘れられない。絵葉書で見たニューヨークの摩天楼やパリのエッフェル塔などは全く夢の別世界であった。 

  今から思えば遠い昔のことのようにも思えるが、まだ一世紀も経っていない私の子供の頃の風景である。社会は急速に変わって確かに便利になったが、果たして自分を含めて、人々はそれだけ幸せになったであろうか。もうあの寒い不便な昔に戻りたくはないが、便利さと幸せとは別のものだと思わざるを得ない。

 

 

小学一年生の頃の思い出

 私は小学校を3回かわっている。そのことはまた別の機会に書くとして、小学一年生は西宮の建石小学校であった。当時住んでいた宮西町という所は、隣の安井小学校の校区であったが、途中で今の国道二号線(当時の阪神国道)を横切らなければならず、当時は国道線の電車が通っており、車もそこそこ走っていた上、今の様に信号があまりなかったので、危険だというので、姉の時から阪神電車より海側の建石小学校に越境入学していたのであった。

 入学してからの最初の思い出はカラー印刷の教科書であった。二年上の姉の時は、まだ白黒の教科書しかなかったが、私の時はカラーの教科書に変わったのが自慢であった。桜の模様のついた本で、国語は「サイタサイタサクラガサイタ」に始まり、「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」と続き、片仮名を先に教えられた。算数の本もカラーで当時の一銭銅貨が並んだ数の勘定から始まっていた。

 建石小学校については、一年生の時だけだったので、思い出はあまりないが、前年度の室戸台風の時に高波に襲われたことがあり、その時の水位の印が校舎の壁に刻まれていたが、確か1メートル位の高さだったかと思うが、自分の背丈より高いのを知って驚いたことを覚えている。

 あとは学校以外のことになるが、甲子園球場が比較的に近かったので、タイガースの試合を見に行ったが、その時、球場の便所で、ばったりクラスメートに出会ったことを何故か今でも思い出す。プロ野球のリーグ戦が始まったのが1936年だが、タイガースが出来たのは35年なので、リーグ戦だったと思っていたが、それ以前の何らかの試合であったのであろう。

 タイガースはそれ以来のファンであり、甲子園球場へはその後も何回ともなく行っているが、当時は球場の他にも阪神パークとして、遊園地や水族館にプールなどが次々に出来た頃で、賑わっていたものであった。少し後のことになるが、プールに生きた鯨を泳がせたこともあったし、何十隻もの模型の軍艦を浮かべて観艦式の真似事が行われたこともあった。

 また西宮戎神社が近かったので、友達と二人で境内にある池の亀を捕まえようとして池の中へ入り、結局捕まえられず、びしょ濡れになって帰ったことがあった。その時誰かに怒られた記憶がないのが不思議である。大人になってから戎神社へ行った時には、おそらく当時とは変わってしまっていたのであろうが、こんな所でよく子供が入って遊んだものかと驚いたものであった。

 当時は西宮の海岸も今のように埋立地などなく、夏は新聞社の海水浴場が作られて賑わい、沖には帆かけ舟が見えた。漁師さんが海岸で地引網を引き上げて鰯を水揚げし、それを子供たちが興味深く見ていたし、その後には、「鰯や鰯」と掛け声をかけて取れた鰯を売り歩いている光景も忘れられない。

 私の思い出の中の香櫨園の浜は、松林があり、砂浜が続いて、静かな波が満ち引きしており、遠くを見れば沖を船が行くといったイメージの場所であった。 それが今では、その海岸の先に人工島が出来て、海は遥か遠くへ退いてしまい、昔の面影は全くなくなってしまっている。