池田の小さなレストラン

 最近は、街中に個人経営であろう小さなレストランが増えている様である。古い民家や店舗を改装し、少しづつ特徴を出して、こじんまりした小さなレストランにしているところが多い様である。

 時々チラシの広告が入っていたりするが、昔だったら、看板に「めし」と書いた一膳飯屋や、うどん屋、蕎麦屋と言った所が、今はハイカラになって、小さなフランス、イタリア、インド、ネパールなどの料理店や、こじんまりした和食の店になったりしているのだと思えば良いのかも知れない。

 池田の駅近くでも、昔はどん詰まりの様な小道にあった民家が、何軒か改築し、古い佇まいのまま、小さなレストラン街の様になっているような所もある。

 もう遠方までは行けないし、何回か行った様な所は避け、目新しい所として「父の日」に、娘が連れて行ってくれた所も、福島県の会津出身の人が二人でやっているそのようなこじんまりしたレストランであった。

 つきたての餅が売りらしい和食店だったが、フロアの半分が調理場の感じで、後の半分が客室といった感じ。入り口の両側がそれぞれ二人席で、そこから中に入るカウンターまがいの席が三人用、その奥に四人掛けのテーブルが二卓で全てといった感じであった。

 料理は結構選択も出来るし、味もそこそこ、飲み物も選べる。午前11時開店というから、丁度その時刻に行ったためか一番乗り。奥の座席に座って料理人と話しながら注文したりしていると、すぐに客が次々と入ってくるではないか。中年過ぎの女性ばかりである。仲間かと思えば皆別々に一人で来ているようである。平日の昼前であるから、仕事休みの昼にはまだ早い。

 昔だったら昼間、留守を預かっている女性が一人で外食など考えられなかったであろう。母が一人で外食するなど想像も出来なかった。亭主は勤めに出、子がいても学校か会社、一人で昼を迎える主婦であれば、昔なら一人でお茶漬けででも昼を済ませるところであろう。

 時代が変わったことをつくづく感じさせられた。仕事であちこち廻っている女性かも知れないが、次々にやってくる女性を見れば、どういう女性なのか想像も出来る。

 いずれにしても、平日の昼日中、こんな食堂で女性客ばかりとは、つくづく世の中も変わったものだなあと感じさせられたのであった。

 

スポーツは麻薬?

 サッカーの世界選手権大会が始まり、テレビは一日中サッカーばかり放映しているのかと思うほどである。朝早く4時前に起きても、テレビにはグリーンの競技場が映っている。一日中、何時テレビをつけても、何処かの国のサッカー試合が映っているか、サッカー関係者の試合についての解説である。

 こんなに朝から晩までサッカーしか見せてくれないのなら、受信料を負けろと言いたくなる。自ら進んでサッカー番組を見ようという人はどれほどいるのだろうか。無理やりサッカーファンにさせられたくない人も多いであろう。関心のない人も、嫌いな人も、嫌でもサッカーを見さされる。サッカーのために他の番組がどれだけ削られていることだろう。嫌な人は見なければと言っても、代替番組を流すのでもないし、金も払っているのである。

 それでも、サッカーの好きな人にとってはありがたい機会である。遠方で行われることであり、見に行こうと思えば、現地へ行くだけでも大変だし、それだけお金と時間をかけることも出来ない。それがテレビで簡単に見れるのである。「日本頑張れ!!」などと応援する人も多いであろう。

 テレビや他の報道が掻き立てれば掻き立てるほどに、熱狂して応援したくなる人も多くなるに違いない。熱狂すればするほどに、他のことは忘れてしまって、サッカーのことだけに夢中になりやすい。夢中になればなるほどサッカーばかりになる。他のことは全て切り捨てられ兼ねない。

 現実の世界から離れ、思考は停止し、日頃の苦しみは何処かへ消え、ただ目の前のサッカーだけに熱中することになる。そうなれば、もう狂気にまでつながりかねない。宗教的な無我の世界に入り込むとも言える。かって、マルクスが宗教はアヘンだ、麻薬だと言ったが、宗教の衰えた現代に見出されたのがスポーツと言えるかも知れない。

 スポーツは健康のためだけではなく、人々の楽しみであり、多忙な生活の中での、精神的な解放であり、皆に薦められるべきものである。しかし、楽しいだけに、それに熱中し度を超えれば、本来の効果より、依存の傾向が強くなり、麻薬や宗教的な世界にも入り兼ねないことも知っておくべきであろう。

 民衆をスポーツに熱狂させて、その間に悪政を進めようという政治家たちも多いのである。現実にも、国民達をこのサッカーに熱中させておいて、その間に国旗損壊罪などを作り、軍備増強、国民の権利剥奪、さらには平和憲法まで改正し、”大日本帝国”の復活を目指す右翼路線を進めようとしているのである。

 サッカーの応援も良いが、その裏で進められている憲法改正、”大日本帝国”復活に断固として反対し、非軍事、平和の民主主義日本を守り、維持していくことが今何よりも大事だということを皆で確かめたいものである。

蝿がいなくなった

 最近は本当に蝿が減ってしまった。昔だったら五月蝿と書いてうるさいと呼ばれたぐらいだったのに、今や陰暦の五月、今の六月なのに、まだ蝿を見ていない。昔だったら今頃は何処からともなく、現れてブンブンと飛び回り、うるさがられた蝿だが、まだ一匹も見ていないとなると、何かが欠けている様な気さえする。

 まだ水洗便所のない頃は、トイレと蝿は切っても切れない縁で、蠅のいないトイレなど考えられなかった。使わない時は便器に蓋をしていても、使用時に下から舞い上がって来るので防ぎようもなかった。水洗便所が普及しても、公衆便所などでは蝿が舞うのも珍しくなかった。

蝿がうるさくて使えない所さえあった。

 街を歩いていても、食堂などの勝手口近くや、ゴミ箱の近く、ドブ川などには必ず蝿がいたものであった。時には電車の中にまで蝿が紛れ込むこともあった。八百屋や魚屋、市場などでは蝿がいることが前提で、商売をしている様なものであった。

 蠅はうるさいだけでなく、細菌や汚物を運ぶので不衛生だと言って皆に嫌われながらも、もう人々の日常生活の隅々にまでにまで入り込んで共存し、蠅の存在を前提として日々の生活が回っていたと言ってもよかった。

 蠅を寄せつけない様に、卓袱台などには大きな網の傘がかぶされ、食器棚などは網戸で、蝿の侵入を防いでいたし、何処へ行っても、蝿叩きなるものが用意されていて叩き落としたり、蠅取り用粘着テープが吊るされていてそれで絡め取ろうという店もあった。

 かってはこんなに馴染みの深かった蝿なのに、近頃は全く見かけなくなくなったと言っても良いぐらいである。トイレは何処も水洗できれいになったし、街も清潔になり、ゴミの回収も進んでいる。スーパーやコンビニのおかげで、魚屋も八百屋も無くなってしまった。街も家庭もすっかりきれいになって、もはや蝿が生きるスペースがなくなってしまったのかも知れない。

 清潔で衛生的な環境はありがたいが、あのうるさい蝿がすっかりいなくなったのも少し寂しい気がする。

 

 

テンキ、デンキ、ペンチ

 朝食を済ませてリビングに移り、ゆったりとしたア-ムチェアに座り、その背も半分倒して、リラックスして、新聞を読み始めた。いつもなら、アームチェアの後ろ上から照らすライトのスイッチが昨日から故障して電気がつかないので、少し薄暗いが我慢することにした。

 すぐ後から女房が来て雨戸を開けた。台風が近づいているからか、外は雨が降っている。女房が「天気が悪いね」と言ったが、こちらは紙面を読み始めたところで、電気がつかないのを気にしていたので、電気がつかないことを言っているのかと思った、

 まだ補聴器を耳に入れていなかったので、天気も電気も聞き分けられなかった。「スイッチが全然回らないんだよ」と返事した。女房もやっと天気も悪いが、昨日から電気のスイッチが故障していることを知っていたので、「ペンチで回してみては」と言って、早速二階へ行ってペンチを持って降りてきた。私はペンチも電気もはっきり聞き分けられないまま、拡大鏡をかざしながら新聞を読んでいた。

 女房がペンチでスイッチを回してくれたら電気がついた。これで助かったが、補聴器がないと聞きづらい。テンキもデンキも同じだし、ペンチも似たように聞き取れる。

 老人の難聴というものは単に音の大きさで聞きづらいだけのものではなく、長年の難聴の間に、脳での聞き分け能力が衰え、聞き違いが多くなるのが問題の大きな部分を占めているようである。

 補聴器を大金を払って買っても、思いの外あまり利用されず、眼鏡のようには普及しない理由もそんな所にあるなのではなかろうか。耳の悪い年寄りが「かってツンボ」などと言って非難されるのも、音が聞こえないというより、聞き分ける能力の問題からが来ているような気がすろ。

現代の二宮金次郎

 昔の小学校には、何処でも、校門を潜るとすぐ近くに奉安殿と二宮金次郎の像があったものである。生徒たちは奉安殿の前でペコンと頭を下げて通り過ぎ、それを二宮金次郎像が眺めているようなの所が多かった。

 奉安殿には教育勅語が収められており、校長は学校が火事だったりすれば、真っ先に教育勅語を持って避難しなければならないと言われていた。その近くに、二宮金次郎の立像が薪を背負い、本を読みながら立っていたのである。

 当時は、二宮金次郎が勉強のお手本とされていて、明治44年には文部省唱歌で「芝刈り 縄ない 草鞋を作り、 親の手助け 弟の世話し、兄弟仲良く 孝行尽くす、手本は二宮金次郎」と歌われ、お手本として、もっと勉強しなさいと言われたのだった。

 それが、昭和の初めになると、二宮金次郎の銅像が作られるようになり、次第に全国の小学校に広まっていったのだそうである。

 ところが、戦争末期になると、金属供出で回収されたものも多く、瀬戸物の二宮金次郎像なども作られたが、戦後は時代にそぐはないとか、本を読みながら歩くのは危険だなどとも言われ、校舎の老朽化や解体、建て替えなどを機会に撤去されていった所が多くなった様である。

 今では、意識して他の場所に残されているのが見られるぐらいで、二宮金次郎を知らない人も増えている。戦後80年もすれば当然のことともいえよう。

 ところが、最近はあちこちで生きた二宮金次郎が復活している?朝の出勤時にでも街をいく勤め人の姿を見ればよくわかる。二宮金次郎のそっくりさんがが続々と行くではないか。服装は着物ではなく、背広の上下で、薪の代わりに四角いおおきなパソコンの入ったリュックサックを背負い、本の代わりにスマホを歩きながら見ているのである。

 どう見ても、現代の二宮金次郎ではなかろうか。

 

沖縄慰霊の日

 六月二十三日は沖縄慰霊の日である。アメリカの日本本州への侵攻を少しでも遅らせるようと、日本は沖縄でアメリカ軍との最後の決戦を行ったのだが、島は海を埋め尽くす様な米軍艦船に取り囲まれ、鉄の暴風と言われた大規模な激しい攻撃にさらされ、日本軍は破れ、沖縄の住民も四人に一人がが殺されるという悲劇になったのであった。

 当時私は帝国海軍の海軍兵学校生徒だったが、天皇陛下のために死のうと本気で考えていたので、日本が負けることは考えられなかった。しかし、そうだからと言って、客観的に見れば、どう見ても負け戦で、日に日に追い込まれ、先の希望も持てない状態になって来ていた。

 六月二十三日については、当時の沖縄守備隊の総司令官が、これを最後と自刃する前に、大本営宛の最後の報告として「沖縄県民はよく戦った、後日特別のご配慮を」とあったというのを何故か今も覚えている。それが何と80年経っても、どれだけ特別な配慮があったことであろうか。沖縄の人たちの苦しみは今も続いているのである。

 最後の沖縄戦さえ破れては、最早どう見ても勝ち目はない。いよいよお国のために死ななければならない時が迫ってきた と密かの覚悟を新たにしたものであった。

 「どうなるのでしょうかね」と尋ねても、負けるとは言えないので「何とかなるでしょう」としか返って来ない。「鬼畜米英、撃ちてし止まん」「神州不滅」「神風が吹く」などとスローガンは勇ましいが、一方では「最後の決戦」「最後の決戦」「本土決戦」などと言われる様になり、どうなることかと不安の中で、お互いに沈黙の中で事態を了解し、納得していたようである。

 こんなことがあった上に、戦後のアメリカの占領。土地の強制没収、米軍による事故や犯罪、米軍基地の沖縄への集約など、戦後も本州の分までも背負わされ、いつまでも続く沖縄の災難に、何か自責の念を感じ、戦後、世の中が落ち着き、観光旅行なども盛んになっても、沖縄だけには行きたくなかった。アメリカ滞在中も、沖縄出身の世話になった女性にも、沖縄については話す気になれなかった。

 一度だけ沖縄へ行ったことがあるが、現地の高台から周囲を見渡して驚かされた印象を今も忘れられない。緑豊かで快適そうな所は皆アメリカ軍の基地か、それに関連した接収地ではないか。その間の狭い細々とした土地に密集しているのが、沖縄の人たちの生活場所なのである。沖縄の現状が手に取るように分かったものである。

 なお、最近同志社だったかの沖縄研修旅行の事故で、文科省の偏向教育だとの発言から研修旅行が減れば、同じ日本の沖縄の実情を知る機会が減るのではないかと危惧される。同じ日本である沖縄を理解することは、日本を理解することである。沖縄の研修旅行は是非盛んにして欲しいものである。

池田城の百合

 91歳の末ぐらいまでは、若い時と同じ様に、何処へでも手軽に出かけられたが、その頃から脊椎管狭窄症に続いて、長い間のコロナによる外出制限、免疫性血小板減少性紫斑病による入院加療などが続き、次第に行動範囲が狭くなってしまった。

 それでもトライウオーカーなる歩行補助器を手に入れ、箕面の滝や、中之島の美術館までも行ったこともあり、95歳ぐらいまでは必要とあれば、何処へでも行けたが、それ以降となると、行動範囲が次第に狭くなっていってしまった。

 池田は山麓の街なので何処へ行くのも坂がある。昔は平気で登り降りしていた坂道も、トライウオーカーでは登りよりも、下りが怖い。それでも、以前は朝早く登って、色々な花に囲まれ、景色を楽しみながら朝飯を食べた植物園へもよく行ったし、少し離れた所の大きな池の畔に菖蒲園や梅林のある水月公園、あるいは隣町のショッピングセンターあたりが、散歩で行く目的地で始終訪れていた。

 ところが今では、行き先も次第に縮まり、近くの池田駅周辺のショッピングセンターや、近くの公園や神社ぐらいになってしまった。往復でも5千歩ぐらいのことが多い。ところが毎年見て来たあちこちの花はやっぱり見たいものである。

 今年ほ何故か何処も花の着きが良い様であった。我が家の山茶花や辛夷も満開だったし、梅は電車に乗って行けば2ー3駅で、駅から近い中山寺で見た。桜も猪名川堤の桜並木が素晴らしかったし、庭のダグウッドやモッコウバラ、続いて躑躅や皐月も例年になく多くの花を咲かせ楽しませてくれた。

 しかし、五月の菖蒲は水月公園まで行こうかなと思いつつ遠くなってしまって、とうとう行けなかった。せめて六月はお城の公園の百合を見ようと待ち構えていた。この公園あたりが今では散歩で行ける限度であろうか。女房が途中で「今日はもうここらで廻って帰ろう」と」言うのを制して行って見たら、丁度良かった。百合の真っ盛りで、写真の様な景色を見ることが出来た。

 もう今年の花の季節は終わりである。鬱陶しい梅雨の日が続く。さて、来年はどうなることやら? また色々な花を見ることが出来るかどうか分からない。