3月は記念日が多い

3月は私にとって忘れ難い記念すべき日が多い。

1日は、ビキニ・デー、1954年だったか、「三度許すまじ原爆を」という歌がまだ歌い継がれている頃に、第5福竜丸がビキニ環礁近くで、アメリカの水爆実験の放射線を浴び、船員が死亡した事件の忘れ難い日である。

2日は女房の、4日は姉の誕生日。

3日は、昔からの雛祭り、雛人形を飾り、菱餅を置いて、白酒を飲むことになっていたお祭りの日であった。

5日は、啓蟄の日、虫が地下から地上に出てくる日などと言われ、ようやく春を感じるようになり始まる頃である。そして、

9日は、3月のサンとキュウでサンキュウデーだとか。

10日東京大空襲の日、B29爆撃機による焼夷弾攻撃により日本の大都市が焼け野が原にされていった嚆矢の忘れ得ない日である。東京に続いて、

12日 名古屋の大空襲、次いで

13日夜から14日にかけては大阪の大空襲、空中から火が降って来て、たちまちあたり一面火の海になって、天王寺公園に逃げた思い出、死ぬまで忘れられない日となっている。この一連の空襲の日と重なって、

11日が忘れもしない東日本大震災の記念日である。津波が押し寄せ、車や人々の逃げる姿、集落の家々が津波に侵され押し流されて動いていく映像などが、今も脳裏に焼き付いている。そして、

13日は二月堂のお水取り、昔からこれが済まないと春は来ないと言われていた。

17日は、セントパトリックデー、ニューヨークで見たアイルランドの人たちの緑色を象徴としたパレードが今も目に浮かぶ。これが4月のイースターにつながる一連の春のお祭りやパレードの始まりを告げる行事となっている。

20日は、イラク戦争の開戦日、アメリカがイラクが大量破棄兵器を持っているといって、国連決議もないまま、イラクへ侵攻したが、結局、大量破壊兵器もなかったままに、フセイン政権を倒し、長期間の占領でイラクを無茶苦茶にしてしまった戦争の始まった日である。ロシアのウクライナ侵攻もこれを踏まえた上のことであろう。また日本では

20日はあの地下鉄サリン事件が起こり、大勢の犠牲者の出た日でもある。

21日は言うまでもなく、春のお彼岸の中日、春分の日。あと付け足せば、

27日は昔の暦で七二候の一つで桜始開と言われ、桜の日とされているそうである。spれにこの日は下のミス目の誕生日でもある。そして最後の

31日で今年度が終わり、4月から新年度ということになるわけである。こうして今年も、何やかやが連なって、あっという間に3月も過ぎてしまうことになる。

イラク戦争から20年

 3月20日イラク戦争が始まった日である。丁度、20年前のこの日、アメリカはイギリスを乗せて、フランスなどの反対を押し切り、国連の支持もないままに、イラク大量破壊兵器を隠しているという口実で、イラク侵略を開始したのであった。

 米英の圧倒的な力により、たちまちイラクは占領され、サダム・フセイン大統領は殺害されたが、大量破壊兵器は発見されず、90万人以上の人たちが殺され、国は無茶苦茶にされ、20年も経った今もなお平和は齎されず、人々は混乱の中に放置されたままである。このイラク戦争により、「国際社会には正義や真実がなく、アメリカは他国を批判する立場にない」という考えが強まったことは否めない。

 そのアメリカが、現在、NATO諸国に呼びかかけて、ロシアのウクライナ侵攻を非難し、大々的な軍事援助をして、ロシアのプーチン大統領戦争犯罪人にまで仕立てているのである。ロシアの侵略行為は非難さるべきであるが、アメリカが自らの過去の行動を省みるならば、そんなことを言えたものであろうか。前例を作った張本人が同じような行動をとったロシアを非難出来るものでないことは誰の目にも明らかであろう。

 アメリカやNATO諸国以外のインドや中国、アラブ諸国その他の広範な第三国群がアメリカのロシア非難の呼びかけに乗らなかったのは当然のことであろう。しかも、今必要なことは、ウクライナへの軍事援助を続けて戦火の油を注ぐことではなく、ウクライナの国民の苦しみを救うために、まずは戦闘をやめさせ、和平への努力を優先させるべきであろう。

 アメリカは武器援助などによる代理戦争で自国の軍需産業に大儲けさせるのを止め、平和への道筋を探るべきであろう。中国が和平案を出し、習主席がモスクワを訪問して、仲介の労を取ろうとしていると言われるが、少なくとも、アメリカはそれに反対せず、ウクライナのゼレンスキー大統領を説得して、和平の構築に協力すべきであろう。

 それがアメリカの過去の過ちを正し、世界の大国であり、世界の指導者に返り咲こうとするアメリカの取るべき態度ではなかろうか。

三つ子の魂百までも。

 私が育ったのは戦前から戦中、戦後にかけての、まだこの国が貧しい、物のない時代だった。1929年の大恐慌や、東北地方の凶作で娘を売らねば食べていけない人も多くいた様な時代であった。その後育ち盛りの頃が、中国への侵略戦争、なし崩しに続いた世界大戦。ファシズムの嵐が吹き荒れ、「大日本帝国」に踊らされ、最後に原爆まで喰らって戦争が終わった時には、国中が焼け野が原になり、、浮浪児や餓死者に溢れる地獄の様な時代だったのである。

 当然今の様に、物が豊富にあるわけではなかった。世界的にも、大量生産、大量消費の時代はいまだ始まりかけている位の時代でもあった。戦前の貧しかった時代には、外国に出稼ぎにったり、移民したりした人たちの仕送りで漸く国の財政バランスが取れるような状態であった。

 まだ稲作農業が主要産業で、殆ど全てを、人手に頼る循環社会の様相が強かったので、何でも節約し、物を大事にし、使えるものはとことん最後まで使うのが当然のことと感じられていた。

 米は収穫後の稲藁は、蓑に、草鞋に、肥料にと、全て再利用されっていたし、籾も緩衝材などとして用いられていた。食器やお櫃、陶器類なども使えなくなるまで、いつまでも利用された。まだ使い捨ての日用品などなく、何でも修理出来るものは修理して、とことん使うのが仕来たりであった。衣類も繕ったり、作り直したりするのが当然であった。

 当然、まだ使える物は取っておく。まだ利用出来るものは、とことん利用するのが当然のことであった。つぎを当てたズボンやシャツ、靴下などは当たり前であったし、包み紙や新聞紙、紐や輪ゴムなどは、再利用のため保存されていた。

 まだプラスティックがなかったので、ガラスのビールやサイダーの瓶は洗って再利用されたし、その木製のケースは、やはり木製のみかん箱などと共に、机や踏み台その他に広く再利用されていた。

 医療に用いられている使い捨てのプラスチックの注射器や点滴の管なども、ゴムとガラスしかなかったので、シンメルブッシュと言われていた器で沸騰消毒して、何度も再利用されていた。人糞さえも、下水に流すのではなく畑の肥やしに利用されていた。

 そんな時代に育ったので私は「三つ子の魂百まで」と言われる如くに、この年になってもこのような昔の癖が治らないようである。 例えば、衣類などは、外行き用、内用と分けて、古くなった物や傷んだ物は内用として利用し、新しい物や、平素あまり使わないような物は大事に保存しがちとなる。

 贈答品や、買ってきた品物のデパートなどの包み紙は、そっと大事に破らぬ様に開いて、伸ばし、いわえていた紐や輪ゴム、紙袋の類もいつか使えればと思って、捨てられないでとっておくことになる。Amazonの箱や、本の包装ケース、お菓子の箱なども捨てられないで取って置きたくなる。

 衣類なども、一旦もう着なくなっても捨て難い。ケチと言われても、いつの日にか着るかもしれないようななものは、その日までとっておきたいことになる。

 もう使う予定もなく、ゴミの山と分かっていても、捨てなさいと言われても心残りがする。郵便物や広告で送られてくるプラスチックの袋なども、時に何かの分別に使うと便利なことがあるので、とっておくと忽ちいっぱい貯まる。チラシで裏が白紙のものを見ると、つい小さく切ってメモ用紙にしたい衝動に駆られる。

 それにある時期、食品のプラスチックの器などを用いてリサイクルアートを作ったりしていたので、その絡みで、余計にガラクタが集まるので、余計に捨てられない。私の部屋や屋根裏部屋はそういったガラクタで満たされる。もう歳からいっても、そろそろ見切りをつけて、不要なものは捨てた方が良いとわかっていながらも、なかなか捨てられない。今でもいつか使えそうなものは、やっぱりとっておこうかということに傾き勝ちである。

「三つ子の魂百までも」という通り、若い時からの癖は本当に死ぬまで治らないもののようである。

 

ケーキ”サヴァラン”

 ニューヨークに住んでいる娘が帰って来るので、どこかで家族一緒に食事でもということになり、千里中央の阪急ホテルに決めた。娘たちが育ったのが千里のニュータウンであり、近くなので、その頃、時々行ったホテルで、しかも、このホテルはもうすぐ閉店することもあり、懐かしい所ということで選んだ。

 ところがその相談の過程で、下の娘がその頃、そこで食べたサヴァランというケーキが美味しかったことを今でも覚えていて、今でもあるかなという話になった。

 私は戦前、戦後の貧しい時代に育ったせいもあり、更には、侍の家系の名残を受け継いでか、「武士は喰わねど高楊枝」という精神が残っているのであろうか、食べ物にはあまり強い関心を持たない方だったので、いつどんなデザートを食べたかなど、そんな古いことを覚えているはずもなかった。女房ももうすっかり忘れていた。

 娘はおそらく、子供の時に食べたおいしさが強烈だったのか、今でもその味をを覚えていると言うが、1〜2年前にヨーロッパに行っているので、その時に、フランスででもサヴァランを食べて昔の味を思い出したのではなかろうか。こちらは何も知らないので、どんなものか想像もつかない。

 Googleで調べてみると、元々は乾燥してしまったパンをラム酒につけて、クリームを添えて食べたら美味しかったのが始まりだとかで、BABAとか呼ばれていたとか書いてあった。それが発展して、ラム酒をどっぷりかけたパンに、クリーをたっぷりかけ、その上に果物を載せたものを SAVARINというようになったとか書いてあった。

 大阪でも、ケーキ屋さんで今も売っている所もあるらしく、梅田の阪急にあるコロンバンにもあると書いてあった。女房も関心があったらしく、二人で大阪市内へ出かけた帰り道に、わざわざ阪急の八階まで上がって、コロンバンの店に寄った。

 店頭のケースに、まるでおあつらえ向きのように、丁度三つだけ、サヴァランが残っているではないか。早速、三つとも買って帰り、娘の所へ寄って、三人で3時のおやつにした。成程ケーキの受け皿にまで、ラム酒がたっぷり溢れ、湿ったパンと、その上に伸びた豊かなクリームから顔を出す果物の調和は、見た目も良く、味も十分楽しむことが出来た。

 ひょんなところから、思わぬケーキの名前を覚え、午後のひと時を楽しむことが出来た次第である。

戦争を知らない世代

 政府はアメリカに言われるままに、とうとう最近、従来の先守防衛の枠を超えてしまい、敵基地先制攻撃さえ可能にし、国の予算もないのに、防衛費を総予算の2%以上と大幅に拡大し、トマホークを400発をアメリカから買うことにしたそうである。

 予算がないので、子育て資金など民生予算を削って、それでも足らない分は税金で賄うなどし、南西諸島に自衛隊基地を新設、増強し、有事の時にはいつでもアメリカの指揮下に戦える準備を始めている。

 最早、あからさまに戦争に備えている格好としか言えない。ウクライナの次のアメリカの目当ては、中国を巡る台湾戦争だとも言われている。再び代理戦争を始めたいのであろうか。アメリカ自体は深入りせずに、武器だけ売って後方支援をし、日本や韓国に代理戦争をさせようと企んでいるようである。

 このままこの路線を進めば、いつの日にか、日本はアメリカに唆されて中国と代理戦争をさせられる恐れが十分に高い。古代よりの隣国であり、文化的にも経済的にも強く依存してきた中国との戦争が日本に与える影響は計りきれないし、国の大きさ、人口の多さ、経済力、軍事力など、どの面をとっても全面的に戦って勝てる相手ではない。

 今や日本をはるかに抜いて巨大になった中国とは、善隣互恵の関係を続けることが日本の繁栄のためにも唯一の道である。まして、アメリカに乗せられて、中国と戦果を交えるようなことは絶対に避けるべきである。日本の国土の崩壊にとどまらず、日本の滅亡、消失にさえ繋がりかねない。

 上に掲げるように、あの戦争を知っている政治家が国を動かしている間は、日本が本格的に戦争に深入りすることはないであろう。これまではアメリカの配下にあっても、アメリカの矛に守られて、日本は盾さえ用意して国を守る。そういう安心感の上に日本の社会はやってきたが、今や状況は変化し、日本はアメリカに言われるままに、敵基地攻撃能力まで備えることになった。

 先年、沖縄を訪れた管元首相は沖縄へ行った時、沖縄戦や米軍基地のことを聞かれ、「僕は戦後生まれなので沖縄戦のことはよく知らない」と答えたそうだが、今や政治の中枢にいる政治家で戦争を知っている者はもう皆無である。話だけでは、実際の戦争のことは分からないであろう。

 こういう時代であるからこそ、アメリカのいうままになっておれば、やがて戦争を押しつけられても、断りきれずに戦争に引き摺り込まれる危険が多くなる。現在アメリカに言われるままに戦争が準備されて来ているのに、何処かの時点でそれを断り、日本なりの平和路線を守るか事が出来るのか、ますます心細くなる。

 しかし、如何なることがあろうと、日本が巻き込まれるような戦争からは逃げるべきである。外交力にこそ力を注いで、あくまで平和を守り、それでも万一戦いを拒否して占領されたとしても、国家と国民は別である。国は破れても、日本の国民の生命を守ることが何よりも優先されるべきことである。

 既に、日本はアメリカに敗れ、その従属国として今日まで生きてきたのではないか。他国に唆されて代理戦争をさせられるような愚は絶対に避け、あくまで平和を守り国民の命を守るべきであろう。

 

アメリカは民主主義国家か?

 アメリカは民主主義の手本のような顔をしているが、それなら日本もアメリカような国に

したいと思うか?と問われれば、否と答えたくなる。

 それにもかかわらず、アメリカは日本では外国の代表であり、多くの日本人にとっては、未だに憧れの素晴らしい国なのではなかろうか。そんなアメリカに住めたら良いなあ、私も住みたい、そこで暮らしてみたいと思う人も今でも多いのではなかろうか。

 確かにアメリカでは、白人で、大金を持っていれば、何でも自由に出來る。そういう強者にとっては、成程素晴らしい自由主義国家であろう。しかし、普通の庶民にとっては、決して何でも自由に振る舞える国ではない。

 ごく少数の金持ちが大多数の庶民の合計より多い資産を独占し、貧富の差が大きく、人種差別が強く、銃の取り締まりも悪く、社会保障政策が貧弱で、何でも金次第のアメリカのような国にはなりたくないと思う人が多いのではなかろうか。

 人々の間の経済的格差の巨大さは世界のどの国よりも大きく、外国の政治まで動かすような超富裕層から、何処にでも見られるその日暮らしのホームレスまでの巨大な格差に、人種差別、貧弱な社会保障などが伴い、お金を持たない人たちにとっては、実質的な自由は奪われ、平等は無視される。そのような中では、博愛も相互扶助ではなく、上から下への慈悲、お恵みとなる。

 民主主義の自由、平等、博愛の三原則の中では、平等こそが民主主義の根幹である。平等のない自由は民主主義とは言えない。力のある者の自由主義は彼らの独占国家と異ならない。自由も、博愛も、人々に平等な権利があって初めて民主主義と言える。人々の求めるものは自由より先に、同じ人間としての平等な権利であり、その平等の上にこそ、自由もあるし、助け合う博愛も成立するのが民主主義であろう。

 それに照らせば、現在のアメリカが民主主義の国と言えるだろうか。単に強者の自由主義国家とでもいうべきではなかろうか。人々の求めている民主主義は皆が平等な権利を持ち、それに従って自由に行動することが出来、お互いに助け合う社会ではなかろうか。それを民主主義というべきなのではなかろうか。

 金持ちがまるで城塞のような安全区域に住んで、自由な生活を謳歌し、そこからはみ出した多く庶民が低賃金労働で、借金に苦しみ、住宅をシェアし、健康不安や失業に脅かされながら暮らすて姿はどう見ても民主主義の社会とは思えない。

 その上アメリカはまるで世界の警察官のような顔をして、自分の価値観に合わぬ国に難癖をつけて政権を倒したり、侵略して国民の生活を破壊してきた。先の戦争以来アメリカほど他国に派兵して戦争を行なってきた国はない。

 アメリカのいう自由な民主主義社会と、彼らのいう権威主義的な社会主義国家と、実際にそこに住んでいる人たちの感じる満足感や幸福感、さらには将来に向けての希望や展望などはどのように違うのであろうか。

 常に歴史は動いており、ウクライナの戦争を見ても、今や一極支配のアメリカの影響から静かに抜け出そうとしている国も次第に多くなってきているのを感じる。この先世界はどう動いていくのであろうか。世界の破滅を免れれば、これまでとは違った世界になっていくであろうことは確かであろう。

空一面から火が降ってきた

 もう77年も昔のことになってしまったが、私にとってはまだついこの間のことのようにしか思えない出来事であった。生きている限り、大阪大空襲のことは決して忘れられない。1945年、敗戦の年の3月13日、深夜から14日の明け方にかけてのことであった。

 既ににその前、3月10日に東京の大空襲があり、一日置いて12日には名古屋の大空襲が続いたから。当然今度は大阪だろうと身構えていた。しかし、身構えると言っても、用水桶の水にバケツと火叩きぐらいしかないので、爆弾が落ちてくるのを待つしかなかった。

 案の定、深夜になって、記録によると、11時57分から14日の3時25分にかけての約3時間だったらしいが、B29爆撃機279機による空襲であった。敵機編隊が潮岬上空を通過したと言うラジオ放送があり、いよいよ来たかと思っているうちに、空から爆音が聞こえ、やがて焼夷弾が落ちてくるのが見られた。

 たちまち全面的に焼夷弾を落とし始めたようで、空中から一面に火が降ってきた。焼夷弾というのは、クラスター爆弾で、それぞれが38個の焼夷弾から出来ており、それが飛行機から落とされると、個々の焼夷弾がバラバラになって、その油脂が燃えながら落ちてくるようになっているのである。

 それを無数の飛行機が上空2千メートルから一斉に落とすので、空一面から火が落ちてくるわけである。こんな景色は二度と見れない。花火は天空の一角が光るだけであるが、焼夷弾攻撃はいわば見渡す限りの空中が花火といった感じとも言えるかも知れない。こんな景色は二度と見られないし、見たくもない。

 燃え盛る油脂が空中から落ちてくるのだから、落ちた所は何処も火事になる。あちこちで一斉に燃えるので、たちまち地上の火事は広範に広がることになる。アメリカは3月の一番乾燥していて燃えやすい時期を選んで空襲を始めたのだった。

 我が家の場合は、初め東隣の家に焼夷弾が落ちたらしい。屋根裏に落ちたようだったが、「消し止めたぞ」という声が聞こえたので、良かったなあと思っていると、今度は北隣の寺の大きな本堂が燃え始めた。大きな炎を上げて燃え上がっているが、どうしようもない。あれよあれよと見ているだけで何も出来ない。

 そのうちに南の方からも火の手が上がる。当時は空襲でも国民は防空の義務があり、自宅を守り逃げてはいけないことになっていたが、やってきた警防団の人が、もう火に囲まれるから逃げて下さいという。それに急かされて、まだ春先で寒かったので、毛布一枚被って、近くの天王寺公園の慶沢園の石垣をよじ登って、公園の中にある美術館の地下に逃げた。命からがらとはこういうことを言うのだなと思ったものであった。

 美術館なら建物も頑丈であるし、広い庭に囲まれているのでもう安心である。小高い所にあるので、周囲の様子もよくわかる。何もすることがないので周囲を眺めていると、すぐ北側の松屋町筋の南にあった大きな武道館が燃えているし、南側の大鉄百貨店も窓という窓から火を吹いている。折角、室戸台風で倒れたのを再建したところなのに、四天王寺五重塔も燃えてしまった。四方八方燃えているので、もう燃え尽きるのを待つより仕方がない。

 夜が明けて明るくなる頃になって、もうあらかた燃え尽きたのか、四方八方、全て焼け落ちて何もなくなり、所々に土壁の蔵が焦げた壁面を見せたまま残っているだけの景色である。まだあちこちに、残火のように、地面に燃える火も見えていたが、もう燃えるものもなくなり、ただ一面の褐色の焦土となってしまっていた。

 自宅がどうなったのか、あれではもう燃えてしまっただろうと思いながら、恐る恐る戻って見る。丁度我が家の狭い一画の何軒かだけが残っているではないか。良かった良かったと思いながら家の裏手へ回っていると、我が家が境で、もうそこから先の北側はすっかり何もない焼け野が原に変貌し、何も残っていない。東隣の折角消し止めたと言っていた家も跡形もなく、延々と焼け跡が続き、遥か彼方の上六の大鉄百貨店のビルががすぐ近くに見えるではないか。あとは見渡す限り全て焼け跡である。

 焼け跡は全てが褐色である。焼けた家の土台に残る瓦礫も褐色、焼け残った金属も錆びた褐色、焼けた板のあとに残った蔵の土壁も褐色、焼け残った木の幹も枝も褐色、全てが地獄のような褐色に覆われ、地面のあちこちにはまだチョロチョロと残火が赤く燃えている。同じ焼け跡の風景が見渡す限り際限もなく続いていた。

 今では想像もつかないが、大阪の中心部までが全て同じように焼け跡となり、淀屋橋から御堂筋を見ても、見渡す限りの焼け跡で、残っているのはガスビルと、本町の角にあったイトマンの建物だけであった。

 それにしても、自宅が焼け残ったのは本当に偶然でラッキーであった。空襲で焼け出されたり、殺された多くの人々のことを思うと、本当に申し訳ない気がする。我が家でも、空襲のことも考えて、あらかじめ当座に使わないような家財などを隣町の倉庫に疎開させていたが、そちらは完全に燃えてしまったが、それぐらいで済んだことは良しとしなければならないであろう。

 もし空襲で焼け出されていたら、あの敗戦直後の厳しかった地獄のような時代をどう乗り越えていたのだろうかと考えると、今でも本当に良くも助かったものだと思う。この空襲の記憶は死ぬまで消えることはないであろう。

 あの空一面から火が落ちてきた夜空の光景は、今も脳裏に焼き付いて、昨日のことのように思い出される。