初めて知った「小上がり」と言う言葉

 新聞を見ていたら、上の写真のような『過疎地では「小上がり」で高齢者おしゃべり』という見出しが目に止まった。上の大見出しから地方のコンビニのことだと分かり、記事を読むと「山あいの店は小上がりを設け」とか「小上がりを備えたイートインコーナー」などと出て来るので、どういうものかはすぐ想像は出来たが、「小上がり」という言葉は初めて知った。

 女房が近くにいたので尋ねて見たが、女房も初めて知ったという。きっと昔、どこかの地方の農村ででも使っていた言葉だろうと思って、広辞苑で調べてみても、「こあきない」、「こあきんど」はあっても「小上がり」は載っていない。

 昔の家で床から少し高いところと言えば、「床の間」かもっと古ければ、偉い人が座った「上座」ぐらいであろうが、もう今は流行らない。

 そこでGoogleで調べてみると、「小上がり」とは、「リビングやダイニングの床面よりも一段高く設計された、畳や、フローリングの小スペースのこと」とある。

「空間をゆるやかに仕切りつつ、床下収納、腰掛け、お昼寝、子供の遊び場など多目的な「隠れ家」として人気があります」と説明されている。どうも最近の家で、こんな作りになっているものがあるようである。

 小さな部屋に大きな段差があったりすると、使い勝手が悪くなるのではないかと危惧されるが、限られた空間を有効に利用するのに都合が良いのかも知れない。

 それは兎も角、近頃はカタカナ言葉なら知らない言葉も次々出てくるが、昔ながらの優しい日本語なのに、98年生きて来て初めてお目にかかった「小上がり」という言葉であった。

革靴、ズックにスニーカー

 以前は大人の男の靴と言えば殆ど革靴のことで、私も仕事をしていた頃はずっと革靴を履いていた。家の中では靴下だけか、裸足のまま、お客さんやトイレなどにはスリッパを用意しているのが普通であった。下駄や草履などを履いていた頃もあった。

 また、子供の頃は、布製で底がゴムのズック靴が普通であった。運動靴などとも言われていたし、かがとを押しつぶしたまま履くのをズッパと言ったりしたようである。今でも地方では、学校などの上履きのことをズックと言っているところもあるそうである。

 ズックというのは元はオランダ語のDoek( ドゥーク )から来ているとかで、もともと厚手の綿や麻などの分厚い布を指すもので、ドンゴロスよりは細かい厚手の布製の袋で、ズック袋などと言われたものもあった。

 ところが最近はスニーカーという言葉が幅を効かせ、革靴以外は皆スニーカーのような感じで、スニーカーが革靴を隅に追いやる感じさえある。電車に乗って乗客の足元を見ても、革靴が減ってスニーカーが幅を利かせているのがよくわかる。

 サラリーマンでも正式な時には革靴だが、平素はネクタイなしが流行るとともに、足元もスニーカーの人が多くなった。靴屋さんも昔からのような靴屋さんではなく、ナイキとかアシックスなどといった大手のスニーカー製造会社が幅をきかし、どんどん新しい製品を宣伝している。

 スニーカーは忍び寄るのsneakから来ている名称で、恐らく革靴と違って足音も立てずに歩けるところからつけられてものであろうが、いろいろなスポーツ靴の発達などと関連して普及してきたもののようである。スポーツ靴メーカーは今ではずいぶん多種類なスニーカーを製造販売しているようで、今では革靴よりもはるかに多く売れているのではなかろうか。

 私もスニーカーのことは知ってはいたが、特になくても困るものでもないので、殆ど利用していなかったが、2〜3年前に入院した時に、室内履きにスリッパを用意していたら、娘がスリッパは危ないからと言って、その頃から流行り出したスリップインとか言って全く手を使わずに履けるスニーカーを用意してくれたのがきっかけで、スニーカーを履くようになった。

 このスリップインの靴というのは、ハンズフリー・スリップ・インとも言われ、かがとが靴滑りのようになっており、全く手を使わずに、靴を履いたり脱いだりすることが出来るので、動作が稚拙になった老人にはうってつけのものである。一度履いたら止められず、今も毎日散歩の時に利用している。

 かっては生活に必須であった革靴たちは、今は揃って靴箱に眠ったままになっている。

 

 

哀れな祖国日本

 アメリカの国連憲章無視、議会にも相談せず、戦線布告もない、明らかな国際法無視のベネズエラやイランへの公然とした一方的な奇襲攻撃に対して日本政府は何も言えないでいる。

 誰が見ても、どう見ても一方的な侵略戦争であり、ロシアのウクライナ侵略は非難している国なのにである。ロシアや中国、スペインその他の国々がはっきりと非難しているにもかかわらず、日本政府はアメリカの顔色を窺うばかりで、戦争の非難すら出来ない。

 そんな中での高市首相の訪米である。元々は4月に行われる予定のトランプ大統領の訪中に先立って、日中問題について打ち合わせておこうという段取りだったのだが、イラン戦争がはいってきて、アメリカに同調しながら、いかにアメリカの要求をこなすかという難題を抱えた中での訪米となってしまった。

 高市首相もいろいろ考えたのであろうが、トランプ大統領と会うなり、握手でなく抱擁し、会談の冒頭で「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ。そのために私は諸外国に働きかけ、しっかり応援したい。今日、私はそれを伝えに来た」という始末。侵略戦争を非難するどころか、よくもここまで言うのかという「対米追随」には空いた口も塞がらない。この上、ホルムズ海峡に自衛隊を派遣して戦争に協力することにでもなっては大変である。

 日米安保条約によって、日本はアメリカに守られているからと本気で思っている人もいるかも知れないが、日米安保条約やそれに伴う地位協定は、アメリカが日本を守るためのものでなく、アメリカが日本を支配し、アメリカがアメリカのために日本を利用するためのものであることを知るべきである。

 アメリカ軍は日本のどこにでも、アメリカ軍の基地を置くことが出来、過去にも、その基地から直接、朝鮮やベトナムへ爆撃機が飛び立ったし、今回のイラン戦争でも、必要とあらば、日本に断りなしで、いつでも爆撃機であろうと戦闘機であろうと日本の基地から飛び立って戦場へ向かえるし、横須賀の軍港から、原子力潜水艦であろうと、他の軍艦であろうと自由に戦地へ行くことが出来るのである。

 戦時でなくとも、日常的に横田の米軍基地の空域のために、羽田空港への離着陸する民間飛行機は無理な急降下を強いられているし、米軍のヘリコプターは空路にない高層ビル群のすぐ近くでも平気で飛んでいるのである。アメリカの大統領をはじめとする訪日要人は横田基地へ降り、そこからヘリコプターで都心に向かうことが多い。また、アメリカ軍の飛行訓練は日本国中どこでも自由に行われなわれている。

 ニュースなどでよく取り上げられる沖縄での米軍基地が絡む住民生活の困難などの問題は、大部分の基地を沖縄に置く日米安保条約によるものであるが、本州でも日米条約は同じであり、政府が何と言おうと、この条約により米軍は日本中どこでも自由に使えることになっているのである。日本は完全な独立国ではなく、アメリカの従属国であり、半植民地とでも言えることを知るべきである。

 敗戦以来のことであるから、もう八十一年にもなる。人々はもう慣れてしまってこれが本来の姿だとでも思っているのであろうか。

 そういえば、明治時代にも安政の五カ国条約以来の不平等条約があり、それによる主権の及ばない治外法権の外国人居留地があり、関税自主権もない時代があったが、国力増強と憲法・民法などの法整備により40年かけて段階的に改正され、1911年に漸く関税自主権を取り戻した歴史が思い出される。

 明治の初めを開国として敗戦まで77年、敗戦後81年、合わせて158年のうち日本が完全な独立国であったのは37年にしか過ぎないことになる。それでも不平等条約の時は、何とかそれを排除すべく努力が傘狙えたが、日米安保条約については、それを解消しようとする努力さえ見られない。最近は日本の独立という声聞かないが、世界で独立を宣言し認めてもらうことが国の根幹である。

 いつの日にか日本が完全な独立国として世界に認められる日を期待しないではおれない。

昔懐かし駄菓子屋さん

 我が家の近くの阪急の駅につながる建物に、ドラッグストアをはじめ色々な店が入っているショッピングモールの様なところがある。最近は不景気のためか、空き店舗も見られ、閉めたままになっている所もあるが、空き店舗を活かして、一週間単位で貸しているところがあり、色々な店が交代で出店している。

 スマホの店の仮設店舗で、何か配って宣伝しているかと思ったら、次の週には地方の物産店、その次は女性向けの衣装や装飾品などの店といった具合に、週替わりの店が開かれているる。出店者がいなくてシャッターが降りたままのこともあるが、店の前が屋内広場でベンチなども置いているので、散歩で立ち寄った時に、そこで休憩をとったりすることが多い。

 いつだったかは、そこで昔の駄菓子屋さんの様な細々としたものを、棚一杯に並べた店が開かれたことがあった。駄菓子の様なものを色々並べた上、昔のおもちゃや模型、けん玉の様なものまで並べ、棚の両端には客用の小さな籠を積み上げている。

 丁度、開店初日の様であった。店には客は誰もいなかった。前の広場のベンチで休憩をとりながらそれを見ていて思った。最近は何処の街も同じだろうが、すっかり老人の街になっているので、今時あの様な店を出しても売れるのかなあ。棚の両端に置かれた籠もあんなに積んでいても、利用する人がいるのかなあと。

 それから2〜3日後、今度は週末だったからか、人通りも多く、その店を見ると、案外人が入っているではないか。もちろん店を見ながら通りすぎる人もいるが、商品を取り上げて見ている人もいるし、籠を持って棚の後ろまで入っている人、何やら求めてビニール袋の商品を持って出てくる人もいて結構流行っていた。

 若い人がいなくても、こういう昔懐かしい商品は結構老人たちを惹きつけるものらしい。実際どれだけ売れて、どれだけ儲かったのかはわからない。しかし、私の予想とは違って、ある程度売り上げがあったであろうことは想像出来た。

 安価であれば、懐かしい安物の小物などは結構、衝動買いしてしまいがちなもののようである。

百歳と零歳

 私の姉の満百歳の祝いを住んでいる施設がしてくれた時の写真です。そこでお世話になっていた介護士さんの生まれてまだ間もない赤ちゃんと一緒の写真です。ピンクのチャンチャコや帽子は職員の方が作ってくれたのだそうです。

 少し遠い場所なので私は行けませんでしたが、何よりもおめでたいことでした。姉は日本の敗戦の年が丁度二十歳で、勤労動員などにも駆り出され、戦後の暗い時代も乗り越えて、よくここまで来れたものだと思います。近年も何度ももうダメかと思われながらもここまで辿り着いたものです。

 丁度百歳違いの二人のお揃いの写真も珍しいのではないでしょうか。姉の満百歳を寿ぐとともに、この赤ちゃんの幸福な人生を願ってやみません。この赤ちゃんが百歳を迎える頃は果たしてどんな世の中になっていることでしょうか。

 私もこの正月に白寿の祝いをして貰いましたが、満百歳にはまだ2年半もあります。果たしてそこまで行けるかどうかわかりませんが、出来ればあやかりたいものです。

 

「もんぺ」を知らない「モンペ」

 何かを読んでいたら「モンペ」という字が目についたので、なつかしい言葉だなあと思って、何が書かれているのか確かめたら、モンペはモンペでも、最近流行りの「モンスターペアレント」のことで、懐かしさは瞬時に飛んでいってしまった。

 時代が変われば、人々の服装も言葉も変わるものである。戦時中は日本の女性で「もんぺ」を穿いていない人はまずいなかった。「もんぺ」を穿かないと戦時下の日常生活に困ったであろうし、戦争中に「もんぺ」を穿いていない人がいれば、非国民と言われて周囲から非難されたことであろう。

 もともと「もんぺ」は農作業などのためのもので、言はば、着物地で作ったパンツの様なもので、着流しの着物では働きにくいので、着物の上からそれを履いて下半身を覆い、働きやすい格好にしたものである。

 戦争を経験した我々の世代で「もんぺ」を知らない人は考えられないが、戦後八十年も経つて服装もすっかり変わった今では、「もんぺ」を見たことも聞いたこともない人がいても不思議ではないだろう。

「もんぺ」と聞いて、農作業や戦時の「もんぺ」姿をを思い浮かべる人は既に殆ど死に絶えておらず、「モンペ」すなわち「モンスターペアレント」しか思い浮かばない人が普通なのは当然のことであろう。

 時代はどんどん変わっていく。今を生きる現役の人たちが、あの暗く惨めだった戦中戦後の時代を知らないことは幸いである。平和な時代が続いた有り難さである。しかし、世界には今また嫌な戦争の匂いが立ち込め始めてきている。戦争は突然始まるものではない。二度とあの悲劇を繰り返すことのないよう、あらゆる戦争に結びつくものに反対し、平和を守っていくようにして貰いたいものである。

 

今年の我が家は花盛り

 今年は正月から我が家の庭は花盛りである。正月からは冬中、何本かのサザンカが例年になく、咲き揃い、長い冬の間、楽しませてくれた。昨年、花が咲き終わった頃に丁度、孫がやって来て、娘と一緒に咲いた花の落ちた後の芽を十分摘んでくれたおかげであろうか。 

 今年も女房が娘が来た時に頼んでいたが、娘と言っても、もう還暦過ぎ、脚立に乗っての作業はもう危ないから、適当にしておかないと注意した次第。

 二月に行った中山寺の探梅はまだ早かったが、月の終わりにはもう角のロウバイが咲いたし、庭の隅の目だたぬ所のボケが「私もいるよ」と言わんばかりに、今年はいくつも綺麗な花をつけていた。

 三月になって、まだ寒いのに春の兆しが次第に強くなり、すぐ近くの家のミモザが黄色い花を揺らし、マグノーリアもぽっかりと口を開け始めた。 

 そうこうするうちに、何故か今年は庭のコブシがこれまでに見たことのない花盛りになった。例年は決まったように、冬にヒヨドリがつがいでやって来て、花の芽を食べていくためか、花はボツボツとしか咲かなかったが、今年はコブシのある裏の家が解体工事で、ヒヨドリが寄りつかなかったせいか、大きなコブシの木の上から下まで花の満開で(写真)、隣家がなくなったこともあって、通りからでも真っ盛りの花が眺められる。コブシにこんなに花が一杯咲くとは知らなかった。

 従来ならこの後、桜の満期を楽しみ、我が家のシンボルツリーであったダグウッドを楽しめるところだが、ダグウッドはもう老木となり、あちこちに伸びた枝も枯れて切られ、今は哀れな栄華の果ての姿なので多くは期待できない。

 その代わりと言っては何だが、数年前から成長して来たモッコウバラがベランダの両端から伸び、昨年両方が結ばれたので、今年はやがてモッコウバラの大きなアーチを楽しめるのではないかと期待している。

 もう花見に遠くへは行けないが、我が家の庭で春を楽しもうと思っている。