戦前の日本語

「あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも

やいゆえよ らりるれろ わいうえお」が今の平仮名であるが、私の子供の頃は 「わいうえお」は「わゐうゑを」であった。片仮名でも、「ワイウエオ」ではなく「ワヰウヱヲ」だった。

 文章で書く時も「要る」は「いる」で「居る」は「ゐる」、「駅」は「えき」だが「絵」は「ゑ」だった。わ行の「ゐ(ヰ)「ゑ(ヱ)「を(ヲ)」は、もとはWを含んだウィ、ウェ、ウォような発音を持っていたようである。

 我々の子供の頃は玄関をゲンカンではなく、はっきりとゲンクァン(genkwan)と発音している人が多かった。回転もカイテンではなくクワイテンと発音されていた。豪華絢爛もゴウクァクエンランだった。

 発音は時とともに変わるもので、例えば最近は 敬礼(ケイレイ)は多く(ケーレー)と発音されるが、黎明(レイメイ)が(レーメー)、命令(メイレイ)がメーレーと言われることが普通になって来ている。

 今でも和歌や俳句などではこの旧仮名や発音が用いられることがあるようである。また蝶々のことは「てふてふと」書くのが普通であった。これは中国語の蝶々の発音が「てふてふ」に近く、それから来ているらしいが、今でも「ちょうちょ」でなく「てふてふ」と描かれることも珍しくない。

 最近得た知識では、今のハヒフヘホは奈良時代にはパピプペポだったそうで、平安時代になるとファフィフゥフェフォになり、室町時代から江戸時代にかけて次第に現在のハヒフへホが定着して来たのだそうである。

 また、戦前の頃は、まだ普通に話している時のような日本語を口語体と言い、その他に書き言葉として、古くからの文語体がまだ用いられており、男子の書状などはまだこの昔からの候文で書かれることも多く、戦争中私たちも、海軍兵学校から故郷の大阪の父親に当てた近況報告などでも、この文語体を用いていたものであった。

「拝啓御父上様:時局益々多難な折、御父上様におかせられましては益々ご健勝の事と存じ奉り候。さて・・・」と言ったようなものであった。書いていて、何だか他所他所しい感じがしたものだったが、当時はまだそれが男の普通の手紙であった。

 私が生きている間の短い時間の間にも言葉もずいぶん変わってしまうものである。

国破れて山河あり

  また8月がやって来た、もう98回も繰り返して来たことになるが、やはり昭和20年、1945年の8月は忘れられない。私の人生はそこでぷっつり切れて、前後で綺麗に分かれている。

 生まれてからそれまでは、大日本帝国に純粋培養されたようなものであった。神代から伝わる万世一系の天皇、現人神の治めたもう神国の国民として、君に忠、親に孝を守り、一旦緩急あれば、天皇陛下の御為には、鴻毛の如き命を捧げ、水漬く屍、草むす屍となっても、悠久の大義に生きると言う”忠君愛国”の世界で育てられ、それしか知らなかった。

 皇国日本は神国であり、天佑神助に守られ、いざとなれば神風が吹き、神州不滅とされていた。生まれてからこのかた、こんなことしか教えられなかった。敗戦時、私は17歳の海軍兵学校生徒だった。まだ他を知らない少年にとっては、それが唯一の真実であり、その他の世界は知る由もなかった。

 従って戦争末期にな、国中が焼け野が原になり、沖縄は落ち、呉の空襲で帝国海軍は全滅し、原子爆弾投下が続き、どう見ても日本が負けていることが明白でも、負けることは考えられなかった。次は本土決戦だ、最後の決戦だと言われても、日本が勝つのならアメリカまで攻めて行かねばならないのに・・変なことを言うなと思ったりもしたが、どう見ても日本の負け戦である。どうなるのだろうと聞いてもどうにかなるだろうとしか言えない状態。こうなれば、あとは本土決戦で死ぬしかないと覚悟したものであった。

 そんな私にとっては、8月15日の敗戦は一大転機であった。絶対であったものが絶対でなくなってしまったのであった。戦争に負けて、それまでの人生の全てがなくなってしまった。何もかもが無くなり、虚な体をかかえて、あてもなくも無蓋貨車で大阪に送り返されても、もうどう生きたら良いのかもわからない、体はあっても、精神はからっぽ。全てを失って、何の目標も、生きる術もない。それこそ空っぽになった体を抱えて、ただ疎開先の家に帰った。

 その時、虚な目に映ったのが昔から変わらぬ生駒山系の山々であった。思わず「国破れて山河あり」の語が出てきた。泰然として変わらぬ山々、それに対してあまりにも儚い負け戦、人の営みの虚しさを感じ、もう生きていても仕方がないのではとふと思ったものであった。

 今でも昨日のことのように忘れられない思い出であった。

 

野蛮だった皇軍

 かっての大日本帝国の最後は、1930年の満州事変から1945年の敗戦まで、ずっと戦争が続いていた。私が生まれたのが1928年だから、私は生まれてから日本が負けるまで、ずっと戦争の中で育った郡国少年であった。

 当時、中学校には教練という軍事演習の必須科目があり、それを指導するために、各学校には配属将校がおり、それを助けるための古参の下士官や特務少尉(マントク)もいて、結構、威張っていた。

 訓練の内容は隊を組んで行進することから始まり、鉄砲の取り扱い方や、銃に短剣を刺して銃剣術の練習などがあった。銃剣術では、藁人形を立て、それを銃剣で突き刺す訓練などがあり、古参の下士官が「そんなことでは人は殺せん」と怒鳴ったりしていたものであった。

 その頃はまだ太平洋戦争は始まっておらず、もっぱら皇軍と言われていた日本軍は中国の戦線を広げ、どこそこの街を占領したという記事が大きく新聞に載り、子供たちは地図を広げてその街を探しては、日の丸の印をつけたりしたものであった。

 ところが皇軍の戦法は現地調達が主だったので、いく先々の占領地で食料などの現地調達を行わなければならなかった。当然それに絡んでの暴力や、女子への凌辱などが行われた。占領地の村長宅へ行き、食料を供出させ、女を提供して貰うのが当たり前に行われていた。

 また占領軍なので、村人に対する横暴や残虐行為は当然で、勝手に村人を捕まえて情報などを得るだけでなく、簡単に人殺しをしていたようである。内地から送られてきた新兵には戦争に慣れさせねばならないという口実で、そこらにいた住民を捕まえてきて、柱に括り付け、新兵に銃剣で突き刺して殺さすようなことも広く行われていたようである。

 南京大虐殺を否定する人までいるようだが、揚子江のほとりに捕虜たちを集め、機関銃で皆殺しにして、遺体を揚子江に流したというのが本当らしいが、当時の新聞で川に浮かんだ死体があまりにも多く、軍艦のスクリューに引っかかって艦が進まないと海軍から苦情が出たというような記事を読んだ記憶がある。

 当時まだ子供であったのに戦争には興味があったのか、今は隠された皇軍の悪事は、当時は自慢話として色々聞かされたものであった。中国では皇軍を日本鬼子と言われていたようである。

最初に覚えた中国語は「クーニャン・ライライ]

 昭和12年7月7日は支那事変(日中戦争)が始まった日である。当時、私は箕面小学校の3年生であった。まだ箕面も大阪府豊能郡箕面村で、元々の農村で、農民の方が郊外住宅の住民より多い時代であった。学校周辺も田や畑が多く、児童が行方不明になると、先生たちは先ずトイレや野壺に落ちていないかを探すような時代であった。

 村の青年の誰かに召集令状が来ると、村中で祝い、「男にしてやらにゃ」と言って、一晩遊郭に送り込み、いざ出征という日には、幟を立てて、村中総出で駅まで送り、小学生はホームに並んで日の丸の小旗を振って見送ったものであった。

 こうして戦場に送り込まれた兵士たちも1〜2年もすれば、交代でそれぞれ故郷に送り返されてきた。若くて召集され、無事帰って来た兵士たちは、やっと任務を果たし終えたという喜びもあり、平凡な農村生活にとっては、すっかり異なる戦争体験は何よりも珍しい、掛け替えのない体験であった。自分の胸に静かにしまっておく訳にはいかない。会う人ごとに誰にでも自慢話をしないではおれなかったに違いない。

 つい子供がいようが何でも喋らずにはおれない。本人にとっては、これまでの日常生活では経験したことのないとっておきの話になる。子供達からすれば憧れの兵隊さんである。その兵隊さんの話は何でも聞きたい。

 そんなところから、若い帰国兵の語る中国での話には、経験した中国女性との関係が必ず出てくる。おそらく占領地で若い女性を求めて「姑娘来来(クーニャン・ライライ)」というのを覚えて、帰ってからも、自慢話を繰り返したのであろう。聞かされた子供たちは何のことかも知らずにただ喜んだのであろう。

 もう90年以上も前のことになるが、未だに忘れられない。田舎から出ていった日本兵が占領地で女を求めて如何に残酷なことを繰り返してきたかはここでは触れないが、この「姑娘来来」からだけでも想像出来るでろう。

原爆反対の声の陰で忘れてはならないこと

 8月6日は広島への原爆投下日である。何年経ってもいつまでも昨日のことのように思い出される。これまでにも何度も書いているが、昨日のことのように覚えているので、もう一度繰り返せば、当時私は広島の海を隔てて西南の江田島にあった海軍兵学校の生徒であった。

 朝8時からは自習時間で皆が揃って机に向かっていた。突然「ピカッ」とした閃光が窓ガラスを走り驚いて何だろうと思ったら、次の瞬間「どどどーん」と爆発音が響いた。「ピカドン」である。「空襲だ!皆外へ出ろ」と言う上級生の声に、皆揃って校庭へ出て空を見上げると、あの原子雲がむくむくと立ち上がって行くところであった。

 初めは新型爆弾だと言って、今度空襲があったらこれを被って逃げろと言って、目の所だけに穴を空けた白布の袋が配られたりしたが、やがて原爆ということも判り、敗戦日を迎えた。

 兵学校も解散となり、8月末にはカッターに乗って曳航されて宇品まで行き、広島駅まで、比治山しか残っていない広島の焼跡を歩いて広島駅まで行き、そこから無蓋貨車に乗って引き揚げたのだった。

 広島の焼け跡は他の都市の焼け跡と異なり、何か燐の燃えるような匂いが漂い、上半身が白と赤のマダラ模様になった裸の男が肩を組み、助け合って歩いているのを見たり、一面の焼け跡の片隅にひん曲がった細い鉄棒が突き刺されており、「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書かれた紙が巻き付けられていたりしてていたのを覚えている。つくづく何もかもやられて負けたのだなということを嫌というほど見せつけられた感じがしたものであった。

 戦争が終わり、原子爆弾投下の非人間的な行為に当然、原爆反対の声が上がり「三度許すまじ原爆を!」の歌を声高く歌ったりしたものだったが、いつも引っかかったのは、原子爆弾は平和な街に落とされたものではないということであった。侵略戦争を続けていた日本との戦争の最中に落とされたものであるということである。

 非人道的な大量破壊兵器である原爆への反対は当然のことであるが、それで1930年以来の日本の侵略戦争が帳消しになるものではない。今では殆んど語られないが、原爆の背景には長い間の日本の侵略戦争があったことを忘れてはいけない。日本も原爆の開発を試んでいたことも。

 

 

依然として雑魚寝の避難所

 テレビでは毎日、熊本地震の報道が流されれている。相変わらず避難所は学校の体育館があてられている。ところが、エアコンの設備のない所が多いそうである。この酷暑の中で、エアコンもない所で、板張りの床の上での雑魚寝がどんなに厳しいものか、想像してみるだけでもその悲惨さがわかる。

 それに驚かされたのは、今だに皆が雑魚寝を余儀無くされていることであった。10年前の熊本地震の時だったか、台湾かフイリピンだったかのテントのような個室がずらりと並んでいる避難所の写真などが報道されていたことがあった。

 そんな写真を見ていたので、日本でも、今では全部とは行かなくても、少しはそんなプライバシーを保てる工夫がされているのだろうと思っていたが、今も全く昔ながらの広い体育館での雑魚寝が続いているのを見て驚かされた。ことに熊本では避難所開設の経験もあり、これらのプライバシーに配慮したプライベートテント方式も知られていたはずである。

 そういった地震の苦い経験があるのに、熊本城こそさ復興れたが、避難所のプライベートテントどころかクーラーさえも準備されないままに、2度目の避難所が開設されているのである。

 10年前の教訓を活かして避難所の改善など誰も考えなかったのであろうか。地震による直接の死者は救い様がなくても、劣悪な生活環境の激変などによって命をなくした災害関連死は予めの設備の改善や地震後の対策如何で救い得る人たちなのである。

 台湾の半導体工場の誘致などばかりに熱中して県民の命を置き去りにした政治が先行し、折角の前回の苦い経験が生かされずに、また同じような対策しか取れなかった行政の責任当局に怒りを感じないではおれない。

 そう思っていたら、台湾から災害援助として、プライベートテントが送られてきたことがSNSに載っていた。感謝すると共に、日本の為政者は恥を知るべきである。

 

百歳老人には生きていけない熊本地震

 熊本に大地震があり、熊本城が崩壊したのがまだそれほど古くないのに、またしても熊本に震度7の大地震が起こり、イオンモールの爆発などもあり、この酷暑の中で被災された人々はさぞ大変だろうと思う。亡くなられた人々のご冥福を祈り、被災した方々に同情申し上げる他に何も出来ないのが情けない。

 ただ日々のニュースを見ているだけだが、仮に98歳の私が被災し、家を失ったとすれば、どうなっったであろうか? 恐らくは、最早生きてこの災害を乗り切ることは無理だったのではなかろうかと思わざるを得ない。

 8月3日の朝日新聞の天声人語に91歳の車椅子の母親について書いている。本当は避難所へ行きたい。でも、人が多い。車椅子は迷惑になる。人目も気になる、硬い床での雑魚寝、夏の暑さ、トイレ不足、プライバシーのなさで躊躇している例が挙げられていた。

 災害のショックに打ちひしがれて、特別暑い酷暑の中に放り出され、休む所も涼む所もなく、食糧も水も欠乏し、老人にとっては不可欠で、人には言えない特別手のかかる排泄もままなければ、命の縮むのは当然であろう。精神的にも落ち込んで、命を縮めることになるのは必定であろう。

 これまでの災害を見ても、災害による直接の死亡者よりも、災害関連死の分類に放り込まれる人の方が多いが、このような死者は対策の如何により減らしうるものである。日本のような地震の頻発、災害多発国では、災害が起こってからではなく、あらかじめ、災害に対する予防的な対策を強力に備え、災害による被害を少しでも減らす平素からの努力が必要なのではなかろうか。被災者の援助など平素から全国的な視野で準備しておくべきであろう。

 地球温暖化により気温の上昇ばかりでなく、海水位の上昇、台風、山火事などの頻発も考えておくべきであろう。備えあれば憂いなし。今後はもっと天変地異に対する予防的な処置や対策を国レベルで平時から準備しておくべきではなかろうか。当然、軍備拡張より優先すべき課題ではなかろうか。