今振り返ってみると、私は1928年生まれなので、1930年から始まった満州事変、上海事変から支那事変(日中戦争)それに続く大東亜戦争(太平洋戦争)と、1945年に17歳で海軍兵学校生徒として敗戦になるまで、殆ど戦争の中で育って来たことになろ。
まるで当時の万世一系の天皇の治める大日本帝国に純粋培養されたとも言えるような世代なのである。したがって、生まれつき小さく運動神経の鈍い、およそ軍人向きではない私でさえ、本気で国のために、天皇陛下のために、一身を投げ出す覚悟だったのである。もう半年も戦争が続いていたら略確実に死んでいたであろうと思われる。
そんな私だから当然戦争の話は嫌というほど聞かされてきた。政府や軍部の公式の発表などは別として、実際に戦争に行った人たちの話も嫌というほど聞かされたものであった。
先ずは支那事変が始まって、同じ村の青年たちが出征し、帰ってくると、帰国した安堵感のうえに、周囲からもチヤホヤされるので、現地での出来事を話したくなるものである。変化に乏しい生活を送ってきた田舎の青年にとっては、出征は忘れることの出来ない非日常的の経験なので、自分の胸の中にそっとしまっては置けないのである。
当時の日本軍はまだ機械化も進まず、主として歩兵中心の戦いで、その上、日本軍は補給を軽視し、現地調達を基本として侵略を進めるのが普通であったようである。当然占領地毎に物資を略奪しては進まなければならないので、それが一般住民の虐殺や婦女子の暴行に繋がったのである。そんな戦線に送られた兵士にとっては、帰国すれば自慢話もしたくなるのは当然であろう。
小学生の我々のいる所でも機会があれば平気で自慢話をしていたものであった。おかげで私が最初に覚えた中国語は彼らから聞いた「クーニャン・ライライ」であった。
太平洋戦争が始まってからは初戦は別とすれば、あとは玉砕だとか転進などと、あまり良いニュースがもないまま、戦争中は帰国兵士から直接戦争の話を聞く機会には恵まれなかった。
ところが敗戦後、何年か経って世の中が落ち着いてくると、次第に戦争中の話を聞く機会も増えてきた。ことに医学部に入り医者になると、当時は軍医帰りや、戦後に軍から医者に代わった先輩たちが何人もいて、そういう人たちから戦争の思い出話を聞くことが多くなった。
やはり大抵は自慢話である。戦争に行ったと言っても、軍医なので、第一線で敵と直接戦ったわけではない人が多いので、うまく戦争を乗り切って帰国できた安堵感から、非日常な自分が関与した戦争の思い出を話したくて仕方がないと言った人が多かった。
こちらは誰や彼から似たような話を聞かされていささか食傷気味だったが、先輩の話なので無視することも出来ないので適当に受け流していた。戦争というあまりにも強い非日常的な経験はなかなか自分の胸の中だけにしまっておくわけにはいかなかったもののようであった。
ところが、同じように戦争から帰った医者の中に、決して戦争のことを語らなかった人たちがいたことも特徴的であった。一番顕著だったのはシベリア帰りの人たちであった。よほど過酷な経験を経てこられたのであろう、彼らは決して口を開こうとしなかったのが際立っていた。
シベリア帰りでなくとも、戦地で上官の命令で住民や捕虜を殺さなければならなかったような残酷な目を経験して来た人は、帰国してもついに死ぬまで戦争の話をしなかったということも聞いてきた。戦地でのあまりにも過酷な残虐行為などの経験から、帰国後平和な生活に戻ってもそのトラウマから逃れられず、人格が変わってしまった人もいたようである。
大局的に見た戦争は勝った負けた、何処を占領した、敵兵をどれだけ殺した等という事が強調されるが、その背景には、過酷な戦争に投入された個々の人々が二度と癒しきれない負荷を負わされることの多かったであろうことをも忘れてはならない。戦争は如何なる視点からも、絶対にすべきものではないことをつくづく感じさせられる。