1935年私が小学校に入学した時の国語の教科書はカタカナで始まり、最初が「サイタサイタサクラガサイタ」で、次が「コイコイシロコイ」、三課目が「ススメススメヘイタイススメ」であった。
1930年に満州事変があり、それに続いて上海事変もあったが、子供の目から見ると、当時はまだまだ平和な時代であった。しかし、子供にはわからなくとも、確実に過度な天皇中心のいびつな帝国主義的軍国主義が進んでいた時代であった。
どの家にも菊の紋章のついた天皇と皇后の写真が飾られ、仏壇とともに神棚もあり、親は毎朝両方のお参りをしていた。祝祭日にはどの家の前にも日の丸の旗が掲げられていた。
何故か我が家には、東郷平八郎の大写しのポスターが壁に掛けてあり、日本海海戦や広瀬中佐、二百三高地、爆弾三勇士の話などを聞かされたことも覚えている。麻疹や赤痢、疫痢、ジフテリア、腸チフスなどの伝染病も実例がいくつもあったので、子供にとっても怖い話であった。医者の往診用の人力車が近くの家の前に止まったいるのも見た。
当時は、まだ都会と田舎の別がはっきりしており、貧富の差も明確で、人々の服装だけ見ても、都会のサラリーマンと労働者、農民とは違っていた。一般の人に混じって軍服を着た軍人や、サーベルをぶら下げ、黒い詰襟服を着た巡査さんもいた。都会では、小学生は冬でも短パンに黒い制服で、学校の紋章のついた帽子を被り、ランドセルを背負っていた。中学生以上も皆、制服制帽姿で、大学生は角帽を被っていた。男は仕事へ行く時には、もう殆どが洋服姿であったが、女性は殆どが着物姿で、家では白いエプロンをかけている人が多かった。
次第に軍国主義が盛んになり始める頃で、満州は日本の生命線だとか、東洋平和のためとかよく聞かされたが、子供には今ひとつわからなかった。満蒙開拓、関東軍などの話とともに世界大恐慌、東北の飢饉、青年将校、五・一五事件、二・二六事件、国粋主義、昭和維新など、いろいろなことがあった。
万世一系の天皇とか、八紘一宇などの話を聞かされることが次第に多くなるとともに、天皇の神格化が進み、現人神になるとともに、軍隊もいつの間にか皇軍となり、聖戦、天佑神助などの声を聞くようになった来ていた。特高という恐ろしい警察がいて、アカを取り締まているという話も、内容のわからないままに、子供にも伝わっていた。
子供達も次第に中国での戦況も聞かされるようになり「徐州徐州と軍馬は進む、徐州良いとこ住み良いか・・・」などの唄を聞かされ、皇軍はどこそこを占領したと言われるごとに、地図を広げてここだここだとばかりに、日の丸の印をつけて喜んだりしていた。南京占領の時には、新聞も大々的に取り上げ、旗行列までして喜んだ。
二人に将校が百人斬り競争をしたとか、普通の兵隊でなく、平服を着た便衣隊も多く掃討したとか、揚子江に浮かぶ中国兵の死体が多く、スクリュウに絡んで軍艦が動かないと言った苦情が海軍から来たとかいう話も聞いた。また、満州の開拓村に関しては、大陸の広大な自然の話とともに、馬賊、匪賊の話があり、関東軍が日本でいちばんの精鋭部隊だと言われていた。 のらくろの漫画とともに「敵中横断三百里」という本が流行ったこともあった。
しかし、当時は戦争と言っても、子供達にとっては遠い国での話であり、勝った勝ったの勝ち戦の話ばかり。帰国した兵隊たちの自慢話を聞かされて喜んだりもしていたが、銃後の守りが大事だと言われ、慰問袋に入れる、石鹸やタオル、キャラメルなどに添えて、兵隊さん宛ての手紙を書かされたこともあった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのお蔭です。お国のために、お国のために戦った、兵隊さんのお蔭です」という歌もよく歌われていた。
銃後の守りの中心部隊は家庭の主婦であったが、国防婦人会というのが作られ、着物の上に白い割烹着を着て、国防婦人会と書いた襷を掛けるのが、制服のようなものであった。千人針を縫ったり、出征兵士の見送りの手伝いをしたり、慰安袋を送ったりする他、バケツリレーにハタキの防火訓練、「贅沢は敵だ」の銃後の引き締め作戦などのキャンペーンにも動員されていた。
それに合わせて、当時我々子供達が歌った歌で覚えているのは「パーマネントに火がついてみるみるうちに禿げ頭、禿げた頭に毛が三本、あら恥ずかしや恥ずかしや、パーマネントは止めめましょう」というのであった。
私の小学校低学年の頃は、こうして次第に軍国主義や戦争ムードが強くなった行きつつあった時代であった。