微妙な補聴器

 聴くという行為はただ音を聞くだけのことではない。聞こえる音を正確にキャッチし、その意味するところを理解することである。耳だけでなく、大脳の聴中枢が大きな役割を果たしているようである。

 歳をとって難聴になり、会話や他の音声が聞き取りにくくなった頃は、ただ何となく、音を大きくすれば良いのではないかと思っていたが、どうも人間の聴力というものはそう簡単なものではないようである。

 耳に入ってくる音を何とか聞き取り、理解しようと耳だけでなく、脳が必死になって努力するもののようで、かすかに掴んだ音を必死になって、それまでに蓄えられていた音や言葉などを総動員して、照らし合わせて何とか理解しようとするもののようである。

 それが音として耳に聞こえても、違った風に聞こえて間違った理解、聞き違えが起こるのが難聴者の特徴である。言葉の理解は単に音の大きさだけの問題ではなく、長年の難聴のために脳が聞き間違えて覚えてしまい、微かな音が音としては聞こえても、聞き違いが起こると、聞こえるのに意味が理解出来ないので、聞こえない、聴き取れないことになる。

 どうもこういうことが補聴器の使い勝手を悪くし、利用が拡がらず、なかなか満足してもらえない点のような気がする。

 過去の経験でも、この補聴器を100万円で買ったのだと自慢して見せてくれた友達がいたが、折角買ったのに補聴器はケースに収まっただけで、フルに利用されてはいないようであった。高価な買い物だったので大切にしているにしても、宝の持ち腐れではないかと思ったが、実は期待に反してすっかり満足のいくものではないので、そういうことになっていたのであろう。

 それに、聴力は視力と違って、常時欠かさず聞いていないと困るものではなく、音が起これば選択的に有用なものだけを拾い出して、その意味を読み取ろうとするものだから、聞こえなくても、困らないことも多いので、補聴器の使いやすさや、煩わしさなども、その使用に大きく影響するようである。

 自分が使ってみて、なかなか満足とまではいかない聴力の複雑さを知って、その友人の態度も理解出来たような気がした。そういえば、聴力が落ちてから聞き違えが多くなり、出前館(でまえかん)が(せまいから)と聞こえたり、(押した)が(落とした)になったりし、むしろ、それを楽しんだことさえあったが、検査してみても、かなりの聞き違えのあることが分かった。

 補聴器を使ってていて、歩行時の足のスリ音、水道の流水の音などは大きくなっても、音声などはやはり難聴というのは、単に音の大きさの問題ではなく、脳の理解の問題が絡むものである。時間をかけて、音を大きく聞きやすくしながら、脳の誤った理解を時間をかけて正していくより仕方がないようである。