昔の人は健脚だった

 我が家の歴史を調べた本を死んだ弟が書いていて、2〜3部もらったのをそのままにしていたが、我が家の甲冑なども含めた展示会が催されることとなり、この機会にと思って読んでみた。

 いろいろなことを調べていて興味深いのだが、その中に、愛知県犬山の侍であった私の4代前の人物が、隠居して暇になったからか、城主のお許しを得て、上方の旅をした時の記録が残っているのに目がいった。本人が65歳、1845年(弘化2年)の2月28日から4月2日まで35日間のことである。

 領主の許可状には、行き先は城崎温泉ということになっているが、何故か実際には城崎へは行かず、有馬から阪神間あたりを巡って、大阪を見物、奈良を経て帰っているようだが、その詳しい旅の日程を見て驚かされた。

 私が住んでいる近辺にも来ているので、距離感なども私が体で知っている感じに照らし合わせてみると、今では考えられないぐらいの距離を毎日続けて歩いていたようである。推定では1日8里(約30キロ)を毎日歩き続けていたことになる。昔の人の健脚振りに驚かされる。

 この近くの日程を見てみると、3月2日に京都入りし、6日まで京都の多くの寺や名所を巡り、3月7日には、京都から愛宕山を経て、高尾、八瀬、嵯峨、嵐山などを通って亀山まで行って泊っている。

 そして、翌3月8日には、亀山を出て山中を通り、野間のあたりから能勢の妙見さんに参り、更に、そこから山の中を通って勝尾寺まで歩いている。

 そして、次の3月9日のところを見ると、驚かされるのは、箕面勝尾寺の宿坊を出て、箕面の滝を見、滝道を降って今の箕面駅あたりの平尾村を通り、池田へ出て、今の呉服橋(巡礼橋)を渡って伊丹を抜け、中山寺観音で一休みし、清荒神にお参りして、山道を難儀した挙句、その日遅くに有馬温泉について、池ノ坊に泊まっているのである。

 今の私の感じでは、勝尾寺から有馬温泉まで1日で歩いて行くことなど、とても考えられない。せいぜい宝塚あたりが限度ではなかろうか。仮に1日だけなら無理をして行けるとしても、毎日毎日それが続いては、たとえ時間的に可能だったとしても、体の疲労が元で、とてもそれにはついて行けないのではなかろうか。

 それもあちこち見物しながら、楽しみながらというのだから恐れ入る。平素の生活が今とは全く異なっていたので、当時としては当たり前のことだったのであろうが、真似のできない健脚ぶりにただ驚かされるばかりであった。