現代日本のアニミズム

 Wikipediaによれば 「アニミズム( 英語: animism )とは、 生物 ・ 無機物 を問わないすべてのものの中に 霊魂 、もしくは 霊 が宿っているという考え方。 19世紀 後半、 イギリス の 人類学者 、 エドワード・バーネット・タイラー が著書『 原始文化 』(1871年)の中で使用し定着させた。」とされている。

 この人は「アニミズムは宗教の原始的形態であり、アニミズム多神教一神教」という宗教形態の進化を考えたようだが、それはは今日では否定されている。しかし、世界が物体的身体を持たず、目に見えない霊的存在によって説明されるとする唯心論的世界観は今尚生きており、日本の八百万の神が存在するという神道などを通じ、日本人の心や慣習の中に今なお深く残っているようである。

 私は月に一度は箕面の滝まで行くことにしているが、滝に着くとやってきた人が滝に向かって手を合わせて拝んでいるのを見て驚かされることが多い。私にとっては、少し異様な感じがするが、女房などに言わせると「日本人だから当たり前よ」ということになる。

 大日本帝国の崩壊以来、私は徹底した無神論のニヒリストになったが、他人の信仰については、どんなものであれ尊重することにしている。信仰はその人の精神の根幹にもつながるものであり、何人もそれを否定することは出来ないと考えている。

 それにしても、戦後の長い期間を見てくると、最近の若い人たちが今なお、どうしてあのようにアニミズムに取り憑かれているのか疑問にもに思うが、つくづく長い歴史の中で培われてきた伝統や風習というものは、人々の心の奥底に根付いてしまっていて、容易には変わらないものだということを表しているように思われる。

 ここ数年か、神社でも、お寺でもお参りしている人が多くなり、初詣の時などには境内から溢れて道路にまで延々と参拝者の行列が見られる。多くは真剣に神に帰依するというより、賽銭を入れて家内安全、合格祈願、交通安全などといった身近なことをお祈りしているようである。賽銭を差し出すから希望を叶えてくれと催促しているように思えて、私は同調出来ない。

 神社でも本殿だけでなく、御神木や磐座(いわくら)などにも手を合わせ、更には片隅に並んだいくつかの末社や、境内にある稲荷神社にまでお参りしている人が多い。お寺では、仏石や境内に立った僧の像にまで線香を上げ、頭を下げるのが普通のようである。

 何にでも頭を下げておけば良いと思うのか、いつだったか箕面の滝道にある誰か土地に関係のある政治家か何かの銅像にまで、何を誤ったのか、頭を下げて拝んでいる人がいたのにはびっくりさせられた。

 ああいう何でも拝んでいる人たちは、恐らく何の目的がなくても、ただ習慣的に頭を下げているだけで、例えば合格祈願などの目的があったとしても、お参りするのは、あわよくば希望を聞き入れてくれればという軽い気持ちでお参りしている人が多いのではなかろうか。

 最近は神社やお寺の方も、それに応えて、どんな希望にも応えますよと言わんばかりにご利益を書き並べているのを目にする。中山寺の参道に掲げられた広告などには殆どありとあらゆるご要望に応えますと言わんばかりに、多くのご利益が書き並べられている。商売気丸出しだが、それでも多くの人がひっきりなしに訪れているのが日本のアニミズムに基づいた信仰?なのであろうか。