戦前の箕面村

 昭和十一年、十二年と十五年、十六年(1936〜1941年)の約4年間箕面に住んでいた。小学校二年から六年生にかけてである。まだ箕面市ではなく、箕面村であった。従って、住所は初回は大阪府豊能郡箕面村字牧落百楽荘、次回は同箕面村櫻井3番通り3丁目であった。その間の2年間は東京にいたし、箕面の前後にも、あちこち転居を繰り返してばかりいたので、私にとって故郷と言えるのは、やはり箕面である。

 当時は石橋からの阪急電車箕面線も、まだ一両だけで、ガタゴト走っていた時代であった。櫻井や牧落の駅も、改札口の駅舎とホームに小さな屋根つきの小屋があるだけで、あとは雨ざらしのホームがあるだけで、ホームの奥には桜の木が並んでいた。このホームの桜の下に小学生が並んで、日の丸の小旗を振って出征兵士を見送ったものであった。

 櫻井や牧落の駅の近くには家並みもあったが、牧落の駅の西側は所々に木のある畑で、野井戸などもあった。電車が箕面に向かって駅をを出ると、すぐ右側に箕面小学校があり、それを過ぎると、あとはは西小路と言って、電車は殆ど何もない野原の中を箕面の駅まで走るようなもので、今の箕面市役所の所にあった池や芦原池の堤がよく見えた。線路に沿うように、野の中の細い道が曲がりなりに、平尾と言われていた箕面の駅周辺の部落まで続いていた。

 小学校には一、二年生用の平屋建ての木造校舎が一番北にまだ残っており、そこから北は何もないので、野原や田畑を通して、西小路や平尾の部落、その向こうの箕面の山までよく見えた。学校の建物はその他、三、四年生用に、少し古ぼけた鉄筋建の校舎が東側にあり、それらを従えるように、立派な本部のある真新しい高学年用の新館が、広い校庭を前にして、真ん中に建っていた。

 そこから広い校庭を挟んで、南側に校門があり、そのすぐそばには、教育勅語を入れた奉安殿と二宮金次郎銅像、その近くには鉄棒のある砂場もあった。校門を出て真っ直ぐの道が百楽荘で、我が家はその校門から百米も離れていなかった。校門を出たすぐの道端に、子供相手の出店が時々出ており、セルロイドで作った小さな船を樟脳で走らせていたのを思い出す。

 当時の小学校の校長は栗山先生で、豊中から電車で通っていた。村役場も学校のすぐ横にあって、村長さんは恐らく村に住んでいたのであろうが、電車で出会って「村長さんこんにちわ」と挨拶したことを覚えている。箕面小学校の位置は今と変わらないが、今のように学校の塀など一部しかなく、ホームから丸見えで、駅のホームも今よりずっと短かく、その北側では、講堂の南の校庭から線路まで自由に降りることが出来た。

 今だったら問題になるところだろうが、当時は電車の回数も少なかったので、一銭のアルミ貨?を電車の来ないうちに線路において、電車が通って押し潰されてぺちゃんこに伸ばされるいたづらをしたこともあった。

 当時は大阪の郊外電車が発達し、沿線の住宅地の開発が進められていた頃なので、生徒の構成も、半分は昔からの村の子供、後の半分は新住民の子供ということになっていた。土地の人には中井とか西川といった同性の人が多かったので、そういう人たちには、姓ではなく、清さん、章介くんといった名前で呼び合うことが多かった。

 箕面村も、今の箕面市よりずっと狭く、西は今と同じだったのであろうが、東は萱野村が隣村であったし、北も止々呂美などは村の外だったのではなかろうか。6年の時の担任の先生は萱野村から自転車で通っていた。

 村では箕面小学校が唯一の小学校だったので、村中の遠くからも子供が通って来ていた。牧落、桜井、半町、桜、桜ヶ丘、西小路、平尾、新稲、瀬川などの部落名を覚えているが、今地図で見ても、子供の足では随分遠くから通って来ていた子供もいたようである。

 中でも特別遠くから通っていたのは、箕面の滝の上と勝尾寺の中間にあった「政の茶屋」の大塚君であった。学校が皆勤だっただけでなく、夏休みの朝6時からのラジオ体操にも皆勤だったのである。小さな子供が、まだ真っ暗な山道を、よく毎日欠かさず降りて来て、学校まで往復していたものかと感心しないではおれない。

 百楽荘や桜井などは新興住宅地で、既にすっかり家が立ち並んでいたが、少し離れた桜ヶ丘などは土地だけ造成して、まだ家の建てられていない所が多かった。新興住宅と古い部落が共存している格好であり、まだ古い村の伝統も残っており、秋には牧落の八幡神社と桜ヶ丘の阿比太神社が相次いで秋祭りを行い、青年団の若い衆が天狗の面を被り、「ささら」を鳴らしながら、子供達を追いかけるという催しが続いていた。

 箕面の山まで行けば、昆虫の宝庫だったし、近くでも昆虫が豊富だったので、よく「昆虫採集」に行ったし、べったんその他色々ななことをして子供たちは遊んでいた。箕面川の河原へ降りてチャンバラごっこをしたことも覚えている。

 少し変わった遊びでは、「たんぽぽの首切り合戦」というのが流行り、一人がタンポポの花を下にして茎をぶら下げて持ち、相手がぶら下げて持った自分のタンポポの花で相手の花の根本を叩き、タンポポ同志で首を斬り合う、首切り合戦をしていた。それで「何人斬り」だなどと言って自慢し合ったのである。同じタンポポでも強いもの、弱いものがあり、何処のタンポポが良いとかいって、自転車に乗って、桜ヶ丘まで取りに行ったり、塩漬けにすると強くなると言って塩水に漬けたりしたものであった。

 タンポポ取りには池の堤にも行ったが、池の堤にはつくしがよく取れた。また、池のそうざらえ「かいぼり」の時には、大きな鯉や鮒などが跳ねているのを見たこともあった。当時は今のようにどこの池にも金網などなく、誰でも自由に入れたので、池で釣りをしている人も見られたし、溺れて死んだ子供もいた。

 当時は広く農業が行われていたので、春には蓮華畑が一面に広がっていたし、クロバーの畑もあり、クロバー花を摘んで首輪などをを作る女の子もいた。また肥え壺や野井戸もあちこちにあり、防護柵も何もないので、嵌まる子供も時にいた。野井戸は入り口より奥が広がっていることが多いので、一旦落ちると上がれないと言われており、生徒が行方不明になった時には、野井戸が優先的な探索の対象となっていた。

 また便所も今のように水洗式でなく、便壺式だったので、学校で子供がいなくなった時には、まず初めに便壺を探すことが必須だったようである。まだまだ発展段階の郊外地で、土地の農家の子供の中には、六年生の伊勢神宮への修学旅行の時に、初めて汽車を見たという今では想像もつかないような子もいた。

 昭和四年は恐慌の年だったし、東北では凶作なども重なり、当時の社会も格差が酷かったようである。大阪ではないが、鳥取県の浦富だったかに海水浴へ行った時に、二人の子供が揃って筒っぽの着物を着て、裸足で学校へ行くのを見たことも忘れられない。まだ八十年ばかりしか経っていない、平和だった戦前の日本の素朴な風景であった。今では考えられないような世界に住んでいたのである。