昔の箕面の滝道

 昔も今も箕面は滝と紅葉で有名で、例年この季節になると、こんなコロナの時代でも、結構観光客で賑わっている。

 もうおよそ八十年前にもなるが、私は阪急の箕面の一つ手前の牧落に住んでいたので、箕面駅から、箕面の滝、その上の、杉の茶屋や政の茶屋、更には高山や六個山、勝尾寺あたりまでは、その頃からの行動範囲であった。

 箕面の駅を降りると、今も形を変えているが、駅前広場があり、交番があって、そこから始まる滝道には、お土産屋さんが、今とは違って、隙間もなく並んでいる感じで、どの店でも、決まって店先で紅葉の天ぷらを揚げている感じであった。大道君という痩せて背の高かった友人の店もあった。

 駅から少し上がった通りの左側には、鶴屋だったか、奥まった料亭が一軒あったが、今はマンションになってしまっている。そこから少し行った所には、箕面焼の店があり、昔は絵付けなどさせてくれた。

 その奥の現在の箕面観光ホテル下の広場は、当時どうなっていたのか記憶がない。ずっと後になってのことだが、ホテルが出来た初め頃は、今の足湯の建物あたりからホテル専用のケーブルカーがあったが、いつの間にかエレベーターに変わってしまった。広場の手前の河鹿荘は昔から今と似た外観であった。

 そこから先は左手に川、右が高い石垣で、西江寺から降りて来る道があり、すぐに公園の入り口の一の橋となる。昔から橋の袂には橋本亭があった。川の対岸には、昔、箕面動物園があったとか、桂公爵の別邸があると子供の頃には聞かされていた。

 一の橋を渡ると、そこが公園の入り口である。山の上に登る道もあるが、川添の道が滝道となる。昔はここ迄来ると、急に山の中へ入った感じがして、河鹿の鳴き声などがよく聞かれたものであった。しばらく比較的平坦な道を行くと、料理旅館があり、そこからも西江寺の上へ通じる道の橋があったりし、更に旅館や料理屋の前を過ぎると、湾曲した川の流れを横切って、近道の橋がかかっている。

 近道をして、更に滝道を川に沿って曲がりなりに進むと、やがて、昆虫館が突き当たりに見えてくる。昔は昆虫館などなく、ここには鯉の料理屋があり、前の川の一部を仕切って生簀にしていたので、多くの緋鯉や真鯉が泳いでいたものだった。今でも、川のその部分だけ川の中に岩がなく、生簀の名残が感じられる。

 昆虫館の所で川に沿ってほぼ直角に曲がって進むと、やがて左に鳥居があり、川はもう一度曲がって瀧安寺になる。道の左手に本堂などの伽藍、右手の石垣の上には楼閣が聳え、赤い橋で両者が結ばれている。

 富籤を日本で最初に発行したお寺でも有名であるが、昔はその石垣の上の楼閣と赤い橋、それにかかる紅葉が箕面のシンボルとされていて、箕面の絵葉書になっていたものである。

 お寺を越えて滝道を進むと、また右手に小さな橋があり、川の対岸を通って滝へ行く道が分かれており、その入り口あたりにも、昔から旅館や料理店があった。

 そこらから道は急な登り坂となり、私は勝手に一ノ坂と呼んでいる。道は次第に川面から高い所を行くこととなる。少し息切れをするぐらい上った所で、少し平坦な場所へ出たなと思うと、右手に琴の家と書かれた門があり、潜って川面近くに降りた所に旅館の建物が立っている。

 今は何処かの会社の施設になっているようだが、ここは戦前に、野口英世が大阪へ講演に来た時、母と一緒に泊まった所である。その宴席での博士の母親のもてなし方に感激した女将が、戦争で叶わなかった博士に対する賞賛を、戦後になってやっと果たすことが出来たという話が残っており、それが滝道のすぐ左上に建っている野口英世像なのである。

 そこから先の滝道は少し降って落合橋に出る。ここで六個山の方から流れてきた小川と合流するが、その川に沿って五月山方面へ抜けることが出来る。トンネルも昔からあった。

 落合橋を渡ると、再び急坂となる。私はニノ坂と呼んでいるが、それを登り切った所に鶴屋だったかという食堂が昔からあった。トイレもあり、滝道の休憩所になっている。

 そこを過ぎると、滝道は川面からかなり高い所を通っているが、ここらからは植生も少し変わり、杉林が続くようになり、昼でも薄暗い感じの中を曲り曲がって進むことになる。

 やがて三国峠への登り口があり、それを過ぎると、今度は唐人戻り岩という7米×7米もあるような巨大な岩が道を塞ぐように出現する。昔は道がもっと狭かったので、今よりもっと威圧感があった。唐人が引き返した頃は、更にもっと狭い道を来たのであろうから、本当に戻れなくなった時の恐怖を感じたことであろう。

 そこを過ぎると、また橋を渡ることとなり、対岸を来た登山道と合流し、ここから滝までは最後のまた急坂となる。私の三の坂である。

 初めは真っ直ぐ、あとは曲がり曲がって川沿いの道を登って行くと、やがて戦後の台風時に、救援に来て殉職した合田巡査の碑がある。そこから曲がって食堂を過ぎると、滝が見え始める。滝上へ行く道の分岐点があり、そこを過ぎて、食堂の間を抜け、もう少し登った所に赤い欄干の橋があり、その奥が滝壺の前の広場になる。

 30米上から垂直に落ちる滝の全容を見ることが出来る。これでやれやれ。滝の飛沫を浴び、霊気に触れると、心も静まり、ゆっくり休むことが出来るというものである。

 この広場の滝に向かって右側には、昔は狭いトンネルを通って、滝上に出る道があったのだが、戦後ドライブウエイを造ったりしたためか、ある時、崖の大崩落が起こり、今では殆んど目立たなくなったが、長い間その傷跡を残していた。

 昔の古いトンネルでは、牛車を引いた人が、トンネルの壁と牛車に挟まれて亡くなった事件があったことも忘れられない。また滝の前の広場の東側に立っている、下半分だけの頼山陽の碑も、崩落で半分になってしまったが、この碑は紀元二千六百年記念に建てられたもので、街からここまで引き上げるのに、我々小学生も関与して、綱を引いて、滝道を引き上げたものであった。

 なお、戦前は箕面は昆虫の宝庫で、我々も随分昆虫取りに出かけたものだが、当時の日曜日などには、箕面駅に電車が着く毎に「昆虫採集の人はお集まりください」という声が聞こえ、隊を組んで昆虫採集に行く団体の姿が見られたものであった。今では蝶も蜻蛉も殆んど見かけなくなってしまったが、その名残が昆虫館ということなのである。

 今でも滝と紅葉が少年時代へのノスタルジアを感じさせてくれてはいるが、少し目を凝らすと、我々の子供時代の箕面は、いつしかもう何処か遠くへ行ってしまったようである。