我が家の維新前後

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我が家の甲冑

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曽祖父

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犬山城下、堀の手前最左が我が旧家

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我が祖父


 今年の5月に亡くなった弟が、生前、我が家の歴史を調べて「維新前後」という本に纏めていたが、貰ったコピーもそのままにしていた。

 ところが、私の本籍地の愛知県犬山市の外郭団体とも言うべき「白帝文庫資料館」がこの11月から12月にかけて「犬山城主成瀬家の家臣たち」という特別展を催し、その中で、我が家に伝わる甲冑や、先祖の古文書から、明治の初めの私の祖父の若かりし頃の帯刀の写真までが展示されることになり、久し振りで本籍のある犬山を訪れ、展覧会を見に行ってきた。

 それを機会に弟の本も読み返して、少しばかり先祖の動向についても学ぶ機会となった。もともと、父が亡くなった時に、同居していた私が昔のものを引き継がねばならない立場だったのだが、私の娘たちは二人ともアメリカに永住してしまったので、将来のことを考えて、先祖の供養や、代々伝わってきた武具や古文書などを一切、弟に面倒見て貰うことにしたのであった。

 幸い、弟が日経新聞の記者をしていたこともあり、退職後、熱心に我が家の歴史を調べ、上記の本に纏めてくれていたので、今回の犬山市の展覧会にも、その資料も使って貰うことが出来、我が家の甲冑、武者行列姿や邸絵図、祖父の帯刀写真なども飾って貰い、展覧会の案内パンフレットにもわが家の甲冑の写真を飾って貰うことが出来たのであった。

 資料や展示パノラマからは、尾張犬山藩は3万5000石で、藩主の成瀬家は名古屋徳川の家老を務めており、総勢4〜500名の侍を抱え、家老で最高400石だったそうで、我が祖先は最も一般的な100石扶持の侍で、用人や奉行を務め、城の正面の堀に沿った地に居を構えていたことがわかる。

 しかし、当時の侍には名古屋詰め、江戸詰めもあり、我が祖先も5〜6代前までは、名古屋にも家族連れで屋敷を構えており、死後も名古屋の寺に葬られていたようである。

 犬山の寺には4代前からの墓しか現存しないのはそのためかも知れない。古文書などの資料も4〜5代前からのものが殆どのようで、時代にして十九世紀初頭以降ということになる。今回の展示もその頃のものが主であり、その末尾ぐらいに、私の祖父が明治2年に藩命で東京へ遊学していた時の帯刀の写真が飾られていたというわけである。

 祖父は東京から戻ってから、犬山に最初に出来た小学校の校長をしていたが、その時に学校に勤めていた教員の孫が歴史好きで、弟も資料関係で世話になったようだが、我が家のお寺の墓を訪れたら、祖父の墓に花を活けてくれていたのには驚かされた。

 これまで、それほど先祖のことに興味がなく、戦後の無神論者なので、平素はあまり関心がなかったが、この機会に維新前後の我が家の動向についても、色々勉強させて貰い、黒船がやって来た維新前から、大政奉還で武士がなくなった明治の初めの激変の時代を祖先がどう生き抜いてきたのか、改めて復習させてもらった展覧会であった。