箕面の滝の月参り

 八十歳を超えて毎日は仕事に行かなくなってから、ひと月に一回は箕面の滝まで行くのを習慣にしている。無神論者にもかかわらず、かってに月参りなどと称して殆ど欠かさず、ほとんど朝早くに行っている。

 箕面箕面小学校の卒業からもわかるように、子供の時の故郷のような所なのである。長い間離れてしまっていたが、六十歳を過ぎてから箕面の近くの池田に居を構えたので、昔の思いもあって、箕面にはよく行くようになった。

 そうしたところに、高齢になり家にいることが多くなったので、健康のために運動もしなくてはと思い、近くを散策するようにするとともに、月に一回は箕面の滝まで行くことにしたわけである。

 子供の時、箕面に住んでいた時には、箕面公園は昆虫採集に行ったり、川で遊んだり、滝上の杉の茶屋から政の茶屋、更には勝尾寺まで足を伸ばしたり、我が家の庭の如く遊び回った所なので今も懐かしい。

 八十歳を超えた頃はまだ元気だったので、朝の初発で池田を出、五時十分ぐらいに箕面駅に着き、それから滝まで上り下りで往復5.8キロを歩き、六時十七分箕面駅発の電車に乗り、池田駅から走って家まで帰り、ラジオ体操に間に合うというスケジュールで行っていた。

 当時は足も丈夫だったので、先を行く人を追い越しながら、かなりのスピードで歩いていた。駅から滝まで3ヶ所急な坂道があるのだが、大抵その何処かで、先を行く人を追い抜くことが出来た。当時は私の方が女房より歩くのが速かったので、先を歩き、一の橋、鶴屋の休憩所、滝の前と、先回りしては、女房の来るのを待つのが普通であった。

 いつだったか若い大きな人と出会って、一緒に歩きながら滝道を登ったが、その人はこちらが高齢なので、しばらく一緒の歩いて、その後、先に行く積もりだったようだが、いつまで経っても私のペースが落ちずに、話をしながら進むので、感心して声を上げたこともあった。

 ところが、歳には勝てないないものである。八十七歳で心筋梗塞をやり、九十一歳で脊椎管狭窄症になった後の今では、もう歩いて滝まで行くのが精一杯で、スピードも遅くなり、女性にも子供にも追い抜かされるようになり、途中で二〜三回は休憩しないと、足が前に進まなくなってしまった。今では、女房が先を歩き、私がその後をついていくよりない有様である。

 当然、時間もかかり、ラジオ体操に間に合うように家に帰るなどということは不可能で、帰り道で、途中の竜安寺の広場で近在の人たちが集まってラジオ体操をしているのにであったり、時には、ラジオ体操を終えて滝に向かう一群の人たちに途中で出会う有様である。

 出立も以前は手ぶらでもOKだったが、今は杖が必需品となっている。、ノルディックのダブルスティックを使うと、殊に降りが楽で安全なのでそれを愛用している。

 それでも何とか、今までずっと休むことなく、滝の月参りを続けられてきたことを良しとしければならないだろう。脊椎管狭窄症をやった後の半年以上は、シルバーカーを押して滝まで登ったものである。シルバーカーは登る時には良いが、降る時には、かえって歩き難いので、降り用に杖を持って、シルバーカーを背負う工夫をしたりしたこともあった。

 最近は娘がアメリカから帰国したので、一人でも十分だと思うのだが、女房と二人がかりで面倒見て貰いながらの滝行きの月参りとなっている。それでも何とか途中休みながらも、もう九月分も済ますことが出来た。

 滝道で出会った人に年齢を聞かれて応えるごとに、皆にびっくりされるようになったが、いつまで箕面の滝に月参りを続けることが出来るだろうか。来年にはアメリカの孫が久し振りでやって来る予定だというので、今は、その時にまた孫と一緒に滝まで行ければと楽しみにしている。