箕面小学校時代

 先に書いたように、私は小学1年生の時は西宮だったが、小学校2年と3年の間は箕面で暮らし、さらに4年、5年の間は一旦東京に行っていて、5年の3学期からまた箕面へ戻って、卒業までいたので、子供の時の思い出では、箕面の頃が一番多く、振り返ってみると、箕面が一番故郷のような気がする。

 その頃の箕面は大阪近郊の郊外住宅の開発が進んでいた頃で、新たに拓けた住宅地と、昔ながらの農村が混じり合っているような場所であった。箕面市はまだなく、私の家の住所は大阪府豊能郡箕面村字牧落百楽荘といい、阪急電車箕面線牧落駅の近くで、箕面小学校の正門の通りで、学校から百メートルも離れてなかった。百楽荘と言われる住宅地は二筋三筋ぐらいのもので、駅前あたりと百楽荘のはずれの八幡神社の近くで、昔からの部落に繋がっており、その他の周辺一帯はまだ田圃や畑ばかりであった。

 当時の箕面村には小学校はまだ一校しかなく、生徒も半分は住宅地の子で、あと半分は地元の子たちであった。地元では中村とか西川姓が多かったので、苗字でなく名前で呼んだりしていたものだった。当時から箕面の山一帯も箕面村だったので、一番遠くから来ている子は、箕面の滝勝尾寺の中間ぐらいの奥にあった「政の茶屋」から通って来ていた。6年の時の担任の先生は隣の萱野村から自転車で通って来ていた。

 小学校は村役場に続いた敷地にあり、広い校庭の続きには、青年学校や女子の裁縫学校などもあった。小学校の門を入るとすぐ右に二宮金次郎銅像が立っており、その奥に鉄棒の置かれた砂場を挟んで、教育勅語を収めた奉安殿があった。

 校舎は講堂を除いて、三つの建物からなっており、広い運動場の奥の正面にある大きな鉄筋二階建てが本館とでもいうべき建物で、そこに校長室や教員室などの中心機能があり、5、6年生の教室だけがその中にあった。3年、4年生の教室は本館と直角の方向に建てられた古い鉄筋の校舎にあり、更に1年生と2年生は本館の裏にあった古い木造平屋建ての教室で授業を受けていた。

 その木造校舎の北側には、柱と腰板だけの開け広げの廊下が東西に走り、建物の北側はもうすぐそこから見渡す限りの田圃が広がり、その向こうに箕面の山が望め、細い道が一本だけ通っていて、山裾の箕面駅近くの部落に通じていた。東北の方角には現在箕面市役所が建っている場所にあった灌漑池の堤も見えていた筈である。

 私は5人兄弟で、皆が殆ど年子で続いていたので、私が三年生の時には、六年生から一年生まで、一学年を除いて、全ての学年に兄弟がいることとなり、学校中の先生が我々のことを知っていた。そんなわけで、下の弟が一年生の時、家が近かったので黙って学校を抜け出し帰宅したことがあり、弟の担任の先生が先ず私の教室へ尋ねて来られたことがあった。

 今でもそうだが、学校のすぐ横を阪急電車が走っており、当時はまだ一両だけで走っていたと思う。学校と線路の間には今のような塀などもなく、校庭から少し坂を降ればそのまま線路に降り立つことも出来た。今だったら問題になるであろうが、電車が通る前に一銭銅貨を線路の上の置いて、電車が通って押し潰されてぺちゃんこになるのを見て喜ぶといったいたずらをした事もあった。

 電車がどのくらいの間隔で走っていたのか知らないが、のんびりした田舎の電車の風景で、乗客もまだ少なく、たまたま村長さんと電車で出くわして「村長さんこんにちわ」と挨拶を交わしたことを覚えている。校長先生も豊中から電車で通勤されていた。

 学校での勉強については、もう殆ど何も覚えていないが、毎朝校庭で全児童一緒の朝礼があって、先生も全員出席していたように思う。その中にまだ若い眼鏡をかけた先生がいて、濃い眉毛が両方下がり気味だったのが気になって、こっそり「8時20分」とあだ名をつけていたことを何故か思い出した。また、冬の雪のちらつく校庭を走っていた時、偶然右手の指が左手の中指にあたり霜焼けが破れて出血したことがあり、その傷跡が大人になるまでずっと残っていたのもこの頃だったはずである。

 なお、小学3年生の時に日中戦争が始まり、出征兵士を送り出したり、村の神社のお祭りで青年団の天狗に追いかけられたり、自転車で遠くまで出かけてタンポポを集め、タンポポの首切り合戦をしたり、箕面の山へ昆虫採集に行ったりと、その頃の思い出は多いがそれらについては稿を改めることにしたい。