貧しかった日本

 最近の若い人には想像もつかないであろうが、私たちが生きてきた戦前、戦後しばらくまでの日本は貧しかったし、まだまだ野蛮な国であった。戦後の荒廃時代は別としても、戦前だけを振り返ってみても、この国は間口だけを一所懸命に広げても、まだまだ奥行きのない後進国であった。

 結核が最大の死因であったし、伝染病や寄生虫多もかった。公衆便所なども少なく、道端での立ち小便は普通だったし、唾や痰などは道端へ吐き捨てるもの、ゴミは川に捨てるものであった。立ち小便防止に鳥居の絵があちこちに描かれていたのも象徴的であった。遊郭も公に認められており、若者もそこへ連れて行かれて一人前になったと言われたりした。冷害のあった年などには娘を売らねば暮らせない農家もあった。お祭りなどでの神社やお寺へいくと、入り口あたりには必ず乞食がいたことも忘れられない。

 今は普遍的に見られる電気製品などないに等しく、当時は電灯とラジオぐらいのもの。せいぜいあっても電気ストーブに扇風機、電気コンロぐらいであったろうか。電話も呼び出し電話というものがあり、それは近くの電話のある家の電話を自分の呼び出し電話の番号として、電話があれば知らせて貰い、その家へ行って電話を使わせて貰うわけであった。そういう呼び出し電話のためか、当時の電話器は家の玄関に置かれていることが多かった。

 冷蔵庫は電気器具ではなく、氷屋さんが配達してくれる氷を買って、それで冷やす冷蔵庫で、容量も小さかったので、西瓜を冷やしたりするには井戸や冷たい流水を利用していた。暑さに対しては、エアコンなどまだなかったので、扇子や扇を使うか、せいぜい扇風機で風にあたるのが精一杯で、あとは自然に頼るしかなく、天井の高い家の中や木陰の涼しい風が有難かった。暑い日中は水浴びや昼寝でもして、日が暮れたら夕涼みをし、兎に角、夏休みにはあまり働くなと言われたものであった。

 それでもまだ夏は良かったが、冬の寒さが大変であった。最近の家と違って、昔の日本家屋は夏向きに出来ており、隙間だらけの構造で、およそ冬向きではなかった。暖房といえば、囲炉裏があれば上等、あとは火鉢か炬燵で暖をとるぐらいしかなかった。一番良くないのは、便所が家の外にしかない所も多く、冬の寒い夜にも外へ出ていかねば用が足せないことであった。日本で脳出血による死亡が多かったのはそのせいだとも言われていた。

 田舎のあばら屋で破れた屋根から家の中まで雪が降り、目が覚めたら布団の上に雪が積もっていたという話さえ聞いた。それは兎も角、普通の家でも、朝、目が覚めて起きなければと思っても、寒いのでなかなか起きられないものであった。寒いので風呂に入って温まって寝るという人も多かったが、風呂も電気やガスで沸かすのではなく、家の外にある焚き口から薪で沸かすのが普通で、銭湯を利用する人も多かった。薪割りも一仕事であった。

 夜間など勉強するにも火鉢しかないので、沢山着込んで、火鉢を抱え込んだり、火鉢に跨ったりして暖をとりながらしたものだが、ついうとうとして火鉢にかざしていた手が火の上に落ち「アチチ・・」と思って目が覚めたり、居眠りしていて寒くて目が覚めたら、もうすっかり火鉢の火が消えてしまっていたというようなこともあった。

 顔や手を洗うのも、今のように蛇口から湯が出るわけではないので、冷水で我慢するか、薬缶で沸かした湯を差して、洗面器に入れた水を温めて使ったものであった。母の里へ行った時、貿易商をしていたので、当時はまだ珍しかった瞬間湯沸かし器があり、蛇口から湯が出る文明の利器に驚かされたものであった。未だに、その時見た湯沸かし器の青いガスの炎が忘れられない。

 暖房に乏しいこんな状態だったので、当時の子供達は、冬になれば決まって霜焼けあかぎれに見舞われたし、風邪をひいて咳をする子や、黄色い二本の鼻垂れ小僧もどこででも見られ風景であった。黒い学生服の袖口が乾いた鼻汁でテカテカに光っている子供も多かった。

 また当時は今と違って、赤痢や疫痢、腸チフスなどの伝染病がよく流行り、一緒に遊んでいた子供が疫痢になって翌日にはもう死んでいたり、腸チフスの子が折角回復してきていたのに隠れて何かを食べたために死んでしまったというような話も聞かされた。そんな訳で親から外での買い食いは厳しく止められていたが、友人と一緒にこっそり食べた自転車売りのアイスキャンデーの美味しかったことを今でも覚えている。

 水洗式トイレもまだなかったので汲み取り式で、農家の人や汲み取り屋さんが定期的に決まってやった来ていた。肥壺には大抵蛆虫がうようよ蠢き、蝿が飛ぶのが見えた。トイレは下から寒い風が吹き上がり、暗くて臭くて気持ちの悪い場所で、ゆっくり出来る所ではなっかった。小さな子供が肥壺に落ちる事故もあり、小学校で子供が行方不明になった時には、探すべきは近くの野井戸や便所が挙げられていた。

 戦前の貧しい農家などでは行動範囲も近隣に限られていたので、大阪の近郊であったにも関わらず、小学6年時に伊勢神宮へ修学旅行に行く時に初めて汽車を見たという子もいた。また、夏休みに日本海浦富海岸へ行った時、現地の子が姉弟揃って筒っぽの着物を着て、裸足で学校へ行くのを見て驚いたこともあった。

 戦前の日本は今よりはっきりした階級社会で、華族、士族、平民の別があった他、多くの会社でも、正規のサラリーマンと臨時の雇員、労働者の区別が、服装などの外見からだけでも明らかであった。農家でも地主と小作人の差も歴然としていた。その上、部落民や浮浪者、朝鮮人などの差別もひどかった。えた、非人などと言われた人もいた。

 戦前の日本は国全体としても貧しく、国庫の赤字は外国への出稼ぎ労働者たちの国への送金でやっとバランスが取れる状態であった。戦前1億と言われた人口は朝鮮を含むもので、本土は約7千万人と言われていたが、こんな小さな島国で、こんなに大勢の人を養えるはずがないなどと言われていて、初めは南米へ、続いて満蒙へと積極的に移民を送り出したものであった。

 学校で先生が地球儀で赤く塗られた小さな日本を指して、「よくぞこの素晴らしい国に生まれたものだ」と言われたが、他にいくらでももっと大きな国が沢山あるのに、どうしてこの小さな国に生まれて良かったのか納得がいかなかったことが忘れられない。絵葉書で見たニューヨークの摩天楼やパリのエッフェル塔などは全く夢の別世界であった。 

  今から思えば遠い昔のことのようにも思えるが、まだ一世紀も経っていない私の子供の頃の風景である。社会は急速に変わって確かに便利になったが、果たして自分を含めて、人々はそれだけ幸せになったであろうか。もうあの寒い不便な昔に戻りたくはないが、便利さと幸せとは別のものだと思わざるを得ない。