出征兵士を送った日

 箕面小学校の3年生の夏、1937年7月7日に盧溝橋事件が起こり、初めは不拡大方針だと言われていたが、次第にこじれて行って、しまいには「蒋介石を相手にせず」などとまで言いだし、以来、日中戦争が始まり、とうとうその時から、1945年の夏までずっと戦争の時代になってしまった。当時は宣戦布告もしないままだったので、1930年の満州事変やそれに続く上海事変に倣って支那事変という呼称を使い続けていたのである。 

 その頃から盛んに「東洋平和のために」「東洋平和のためならば」と始終聞かされ、子供心に悪い奴を平らげて平和にするのだなという風に理解していたが、それと同時に「満州は日本の生命線だ」ということが繰り返し叫ばれていたが、どうして日本から遠く離れた大陸の満州が日本の生命線なのか不思議に思ったものであった。朝鮮の併合は日本のすぐ側なので、まだ理解出来ても、満州が生命線とはなぜなのか子ども心に疑問のままだった。 

 それはともかく、戦争が始まると、新聞は毎日のように日本軍がどこそこを占領したとか、次は何処を攻めているなどという記事が出て、地図を見て、そこに日の丸の印を入れたりして喜んでいた。出征兵士の話や銃後の守り、千人針、慰問袋などの話も出るようになり、毎月7日は「興亜奉公日」と決められた。

 そのうちに、箕面村からも出征兵士が出ることになり、最初の人の時には、村を挙げての出征兵士の壮行会が行われた。確か上等兵であったように思われるが、いよいよ出発する日には、「XX上等兵万歳」と書かれた幟を立て、軍服姿に身を固め、武運長久と大書されて、多くの人の寄せ書きが書かれた日の丸を肩から斜めにかけた兵士を囲むように、村長さんを先頭に、在郷軍人の軍服姿の老人や関係者の人たちがぞろぞろ続いて、大勢で牧落の駅へやって来た。

 小学生の子供達も動員されいて、梅田へ向かうホームとは反対側のホームに整列させられ、皆が並んで「雲湧き上がるこの朝、旭日の下・・・」と斉唱しながら、日の丸の小旗を振って、電車に乗って出征していく兵士を見送ったものであった。大勢の人たちが見送っていたが、家族などが何処にいて、どうしていたのかは、分からなかった。

 しかし、こんな行事はは初めだけで、やがて次々と青年たちが箕面からも徴兵されていったのであろうが、もはや学童が動員されることもなく、後になればなる程、見送る人も少なくなり、身内の者や親しい友人ぐらいだけになっていったのではなかろうか。

 こうして多くの出征兵士が出て行った後には、やがて今度は戦死者の白木の遺骨の箱を抱いて静かに帰る人の姿が見られるようになり、墓地には「故XX上等兵の墓」と刻まれた新しい墓が出来、その人の家には表札の横に「誉の家」の張り紙が貼られるようになったが、それらについては話す人も少なかった。

 それとともに、世の中は次第に戦時色を増し、世間でも軍刀をぶら下げた将校の姿が目立つようになり、学校の先生も戦争のことを話すことが多くなった。戦争の話をしに来る軍人なども現れた。子供達の遊びにも兵隊ごっこなどが増えたが、思い出すのは、興亞奉公日毎に、日頃生徒が新聞に載った皇族の写真を切り取ったものを持参して、集めて校庭で燃やすことが行われていたことである。

 当時の古新聞紙は今と違って貴重なもので、野菜を始め色々なものの包装などにフルに再利用されており、切ってトイレットぺーパーにも使われていたので、天皇の写真で尻を拭いてはバチが当たるというので、こんなことも行われていたのであろうか。

 嫌な時代の始まりであったわけだが、当時は戦争といっても地図でしかわからない遠い中国大陸が戦場であり、まだ我々子供達には何も分からず、南京占領で旗行列をして祝ったり、戦地から帰った兵士たちの自慢話などを聞かされていたものであった。