この国では、以前から弱者に対する思いやりが薄く、自己責任論が幅を利かせているきらいがあるが、菅首相までが就任早々「自助、共助、公助」というものだから、ますます自己責任論で弱いものいじめをする人が増えて来たような気がする。
先日、新聞を見ていたら、「語られ始めた生理」という特集があり、生理(月経)に対する知識が不十分で、困っていても、話題にもしづらく、周囲の人に理解してもらえず、生理休暇を取りにくい人も多い。貧困で生理用品を買えない人たちいることなども問題として語られていたが、それについての読者の意見や感想も加えられていた。
それを読んでいて、最後の70代の男性の方の意見に反発したくなった。その人は『「買えない」ではなく、「買わない」のではないか』と言って「生理用品はそんなに高いものではないのに、貧困で買えないとは理解できない。たとえ貧困であっても、生活を見直すことが先決ではないか」「生理への考えの貧困だと思う」とおっしゃる。
しかし、考えて欲しい。貧困を自分のこととして考えて見れば分かりやすいかも知れない。生きていくだけで精一杯な時には、頭の中は衣食住の生存に不可欠なものについての考えで一杯で、他の人にとって、この新聞の欄のように、漸く「語られ始めた生理」などについては、どうしても生活に困っていない人と比べると、考えもその対策も後回しになるのは当然でなかろうか。
当然、生理用品などが高くなくても、お金の支出の順序がなかなかそこまで回ってこないことになるであろう。そうすればやはり「買わない」のではなく「買えない」のではなかろうか。生理への考えや対処も後回しになるであろう。それが貧困というものである。
生理用品だけがポツンとあるものではなく、他の生活必需品とともにあるものであり、貧困であれば、その中で何を優先させねばならないかを考えなければならないのである。貧困についての理解と共感について考え直してていただきたいものである。