羽化し損なった蝉

 庭木の幹の下の方で、脱皮して羽化しそこなった蝉が、半分殻から身を乗り出して、反り返ったまま死んでいるのが見つかった。

 蝉は通常、十何年も地中で暮らした後にやっと地上へ出て、羽化し、蝉となって鳴きながら、僅か十日余りで命を終えると言われている。折角の長い間の地中生活に耐えてきて、やっと地上へ出、羽化して蝉になるところで、無念の最期を遂げてしまったことになる。

 人から見れば、全く残念至極で、その悲運を哀れまなくてはおれないところである。蝉の抜け殻は空蝉(うつせみ)と言われるが、空蝉を残して蝉となることも叶わず、命を落とした蝉には一層哀れを感じざるを得ない。

 私には、つい戦争中の特攻兵士の運命が重なって思い出させる。純情な他の世界を知らない青年たちは、真剣に天皇陛下のため、国のために自ら選んで死んでいったのである。そして大日本帝国は戦に負けて滅んでしまった。もう戦争が半年も続いていたら、私もほぼ確実に死んでいたところである。

 「うつせみ」とは元々は現(うつ)し人(おみ)」で、「現実の人間」のことを指すものであり、仏教思想により、生きている現実の人間ははかなく空しいものだという考えから、「うつしおみ」→「うつせみ」という言葉に「空蝉」という漢字が当てられ、この言葉が「セミの抜け殻」「空しい世の中」「はかない人間」といった意味で用いられるようになったものだと言われている。

 それを知れば、空蝉さえ残せなかった蝉の無念さがわかるような気さえする。目的を果たせず死んでいった無念の特攻兵士のようである。空蝉はいわば墓標で、はかない人生と重ね合わせる時、空蝉にさえ残し得なかった蝉の命は、自然の流れを中断された事故であり、人生に当てはめてみれば、言わば、無念の事故であり、自殺である。一層哀れを催さずにはおれない。

 但し、これは人間からの見方に過ぎない。蝉には蝉の仲間の世界があり、その中での蝉の一生がある。当然、同じ蝉にも色々個体差があり、長い地下生活の間に地下で死ぬものも多いだろうし、地上へ出てすぐ死ぬもの、天寿を全うするものなど色々であろう。人の知る蝉の姿はそのほんの一部分でしかない。

 蝉にとっては、長い間の地下生活こそが命をを楽しむ成長の期間であり、最後に地上に出て、羽化し、蝉となって鳴き声を響かせるのは、命の終わりに卵を産んで子孫につなぐための、ごく短期間の生活に過ぎないのかも知れない。羽化に失敗して死ぬ蝉も、すでに大半の生命を生き抜いて、残りの僅かな時間を失っただけに過ぎなかったのかも知れない。

 人の思いと蝉の思いは違うであろう。しかし、空蝉が人の世の儚さ、虚しさを象徴しているので、羽化の途中で命をなくした蝉を見ていると、地中からやっとの思いで地上に出て、脱皮して蝉となり、急き立てられるような蝉時雨に続き、忽ちに終える命の短さに、人の命を重ね合わせて、つい色々なことを考えさせられるものである。