梅雨が明けると途端に蝉時雨が始まり、我が家の庭もうるさいぐらいである。蝉の抜け殻もいくつか見つけた。
7年間も土の中で暮らし、やっと地上に出て来て、脱皮して蝉になると、もう1週間ぐらいで死んでしまうらしい。1週間しかない命であれば一所懸命に鳴く筈である。
うるさいといわれても、その短い間に、必死に鳴いて相手を探し、相手と結ばれ、子孫を残して死んでいかねばならないのである。うるさいのも我慢してやらねばなるまい。
それでもうまくいけば良いが、どこの世界でもそうだが、大部分がうまく行っても、全てがうまくいくことはありえない。どんなことにも、必ず失敗も伴うものである。思わぬ事故が起こったりする。それが自然の掟でもあろう。
我が家の開け放されたテラスのサンルームに、時たま蝉が紛れこんで来ることがある。天井近くの桟とガラスの天井の間に入り込んで出れなくなることが多い。飛んで逃げようとするのだが、ガラスの天井にぶつかって出れない。少し下方へ飛べば逃げられるのだが、それがなかなか出来ないらしい。いたずらにバタバタするがどうにもならない、そのうちに疲れてじっとしているが、やがては死んでしまう。
折角蝉になっての最後の一週間しかない命。それではいくらなんでも可哀想である。気がついた折には、脚立を持ってきて登り、うちわ二枚で誘導してやって、何とか逃してやることにしている。やっと広い空間に出れた蝉は「ありがとう」と言わんばかりに外へ飛び出し、一直線に植え込みに向かって去って行く。こちらも何かすっきりとした感じがして、小さな喜びに浸れる瞬間である。
それよりもっと深刻な蝉の災難もある。5〜6年も前のことであろうか。庭の木の下の方から出た枝で、蝉が脱皮しかけているのを見つけた。珍しいのでじっと見ていたが、いつまだ経っても動かない。良く見ると、蝉の体が半分、幼虫の割れた背中から出て、反り返った姿勢にまでなり、もう一歩で羽根も殻から出て脱皮出来るすんでのところで死に絶えてしまっているのである。
恐らく、この蝉も他の仲間達同様、7年間だかの長い間を地中で暮らして、やっと地上に出、残りの短い期間を蝉になって、最後の花道を飾ろうとしていたのであろう。それが、最後になって、思いもかけない不幸にあって、どうしても脱皮することが出来ず、そのまま夢敗れて自滅せざるを得なかったのである。
蝉には人間のような感情や思考はないものの、人に当て嵌めれば、泣くにも泣けない哀れさである。何の為の長い長い暗黒の世界の中での生活だったのであろうか。ようやくやっとの思いで地上に出、これから蝉になって木に登り、空を飛んで相棒を見つけ、存分に楽しんで、最後の仕上げを飾ろう思っていたのに、返す返すも残念である。人間であれば、慰めようもないところである。
自然界は冷酷である。どんな生物の世界でも、種族を支え、繁栄させるためには、多くの犠牲をも払わなければならないのである。個々の個体から見れば、多くの欠損や犠牲、消耗などをあらかじめ組み込まれて種が成り立っているものである。全体として成功すれば、その為の犠牲は止むを得ないというのが生物の掟ではなかろうか。
それにしても、7年の後の7日の生命、何とか成就させてやりたいではないか。あの偶然に見た、脱皮にしくじった蝉の姿がいつまでも忘れられない。