”最後の決戦”

 最後の海軍兵学校生徒であった私がもう満九十五歳になるのだから、あの戦争を実際に知っている人はもうごく少数だけになってしまっている。

 菅首相が沖縄へ行って、一国の宰相でありながら「私は戦後生まれだから戦争のことは知らない」と言ったのには呆れたが、政府はアメリカに言われるままに、住民の四人に一人が死んだという苛烈な沖縄戦を経験させられた沖縄の人たちの切実な願いを踏みにじって、辺野古基地の建設を止めようとしないばかりか、最近は琉球列島のあちこちの島に、敵基地先制攻撃が可能なミサイル基地を建設しつつある。

 基地が出来れば、攻撃される公算も高くなるが、狭い島では逃げる所もない。折角多大な犠牲を払ってやっと得た平和な暮らしに、再びあの戦禍を繰り返すのかと思えば、人ごとながら断腸の思いがして、もう涙さえ出ない。沖縄は今なお日本の捨て石なのだろうか。再び沖縄を犠牲にして日本を守ろうというのか。そこに住む人の身になって考える政府の人はいないのであろうか。

 それはともかく、本土決戦を遅らせるためとして、敗れかぶれで戦われた沖縄戦も多大な犠牲を払って1945年4月末には陥落、最早、”最後の決戦”と言って関心は本土に移って行った。

 その頃には、日本の殆ど全ての大都市はB 29による絨毯爆撃で、焼け野が原と化し、本土上空の制空権すらアメリカに握られ、アメリカの飛行機が自由にに飛び回る事態にまでなっていた。日本軍は完全に馬鹿にされていたようなもので、大和、武蔵の後継艦の天城を空母にするため、瀬戸内海で艤装中であったのを見たアメリカの空軍機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」と書いたビラを巻いていった。

 兵学校を地下に移すとして、生徒まで動員して地下壕掘りを始めたが、物資不足で、金槌と鑿で穴を掘って、発破をしかけては掘り進むという原始的な方法しか取れなかった。軍艦は重油がないので動けない。全てが本土決戦のためと称して、島陰に分散待機しているばかり。兵学校の乗艦実習も機雷や敵機の攻撃を見越して、瀬戸内海での一晩のみであった。あとは海軍なのに軍艦がないので、陸戦の訓練ばかり。第4匍匐と言って銃口をもって完全に地上に伏しての匍匐前進や、箱型の模擬地雷を抱えて敵戦車のキャタピラへ鴟び込む訓練までさせられた。

 その頃になるとしきりに”最後の決戦”、”最後の決戦”と繰り返し言われるようになっていた。日本が勝つのなら、日本軍がアメリカへ攻め込んでからでなければならないはずなのに、”最後の決戦”とはおかしなことをいうものだなと思った。そうかといって、もうその頃になると、どう見ても勝てそうな気配はない。状況は誰が見ても悪くなるばかりである。

 素人目には、どう見ても勝てそうにない。しかし海軍軍人が負けるなどとは口が裂けても言えない。思うことさえ出来ない。不安が高まるが口外は出来ない。結局のところ、周囲の人たちの結論は「どうにかなるだろう」しかなかった。

 下士官に毒ガスのサンプルも見せて貰ったこともあった。本土決戦ともなれば、当然この国際法違反の毒ガスも実戦で使われるよう用意されていたのである。当時は知らなかったが、細菌兵器も準備されていたに違いない。もう破れかぶれで、最後の本土決戦では、あらゆることが考えられていたのではなかろうか。風船爆弾のような可能性の薄いものまで、実際に使われていたのである。

 広島長崎の原爆で悲惨な目に遭ったが、本土決戦が実際に行われていたら、如何に無謀で悲惨な戦闘が繰り返されたことだろうかと恐ろしい気になる。もう勝てるとは誰も思えなかったが、負けるということは考えられず、最早、生きる目標が自ら喜んで死に向かって突っ走ることになっていっていた。

 第一線にいたわけではないので、まだ直接、差し迫った死は考えていなかったが、やがてはもう天皇のために、死ぬまで突き進むよりないとの覚悟も出来つつあった。

 そこへ7月末には呉の大空襲があった。地下壕へ避難して出てきたら、当時の日本海軍の旗艦大淀も、湾内にいた利根も沈没座礁して巨体を晒したままもう動けなくなってしまっていた。大勢の戦死戦傷者も出たらしい。周辺の島陰に待機していた軍艦も殆どが沈没座礁し、もう帝国海軍には動ける軍艦はいなくなってしまったかのようであった。

 ”鬼畜米英”の叫びが衰え、”神州不滅”、”神風が吹く”というような声が大きくなり、”最後の決戦”、”最後の決戦”という声が強くなってきた。負けるとは誰も言わなかったが、もう勝てるという人も誰もいなくなった。皆が「どうにかなる」としか言えず、口を閉ざし、次第に暗い感じが覆い始めていた。

 アメリカの飛行機は飛んでも、日本の飛行機は飛ばない。軍艦も飛行機も本土決戦のために取ってあるのだというが、呉の空襲の後の軍艦の惨状を見てはあまり信用ならない。日に日に追い詰められていく感じがしてどうにもならない。

 忠君愛国、天皇陛下のためには笑って死ぬ、「貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら死ぬのは道理、二人揃って死にましょう」などと国のため、天皇のために死ぬことしか考えられず、次第に追い詰められていく感じが強くなっていった。

 そこへ広島の原爆投下である。忘れもしない8月6日の朝8時15分、ちょうど朝の自習時間で、分隊の全員が同じ教室で、それぞれに本を読んで自習している時だった。戦後生き残った広島の人々は原爆のことを「ピカドン」と呼んでいたが、まさにその通りで、初め突然「ピカッ」と光り、何だろうと思っているうちに、「ドカーン」と爆発音がして爆弾とわかった。

 急いで皆で外へ出た時に目にしたのはムクムクと空高く立ち上がる原子雲であった。その時はまだその下の広島でどんな惨状が引き起こされているのかはわからなかったが、次第に惨状が伝わるとともに、いよいよ、本土決戦、”最後の決戦”だ。もうこの先は、国のため天皇のために死ぬことしか考えられなくなってきていた。戦争がもう半年も続いていたら、私はほぼ確実に死んでいたであろう。

 今から思えばひと頃のイスラムの少年兵と同じ様なものだったのではなかろうか。当時十七歳の私には、日本が天皇陛下の治める神国であり、そこで純粋培養された様なもので、他の世界を全く知らなかった。祖国日本は特別な天皇の治める神の国であり、自分の命は鴻毛より軽く、国のため、天皇のために命を捧げるのが帝国海軍軍人の使命であり、国の崩壊を前にしては、最早大義に生きるために死ぬことしか考えられなかった。

 潔く戦って死ぬのが本望だったのに、敗戦が全てのものを奪ってしまった。死ぬつもりが死ねなくなって、どう生きたら良いのかわからなくなってしまった。それが戦後の混乱に繋がっていくことになっていったのであった。