垣間見てきた家なき人々の断面

 戦前、子供の頃には、お寺やお祭りなどへ行くと、必ずと言ってよいぐらい、何処にでもボロを纏って道端に座り、缶詰の空き缶などを前に置いて、黙って座り、通行人に小銭を乞う乞食を見たものであった。「癩病がうつるから近寄るな」などと言われたこともあった。

 昭和4年の恐慌に続く頃で、東北地方では冷害が重なり、娘を売らねば生きて行けないような貧農が多く、田舎出身の多かった軍隊で、それを憂えた青年将校などが昭和維新だと騒いで、5.15や2.26事件が起こり、日中戦争へと向かって行った時代であった。

 従って当時は流浪の貧者にあふれていたのであろう。今ならホームレスというところ。乞食、ものもらい、こもかぶり、ルンペン、パイポなど色々な呼び名があったが、ルンペンが最もポピュラーだったようだ。

  ”青い空から札の束降って ほろり昼寝のホペタを叩く、

   五両、十両、百両に千両、数え切れずに目が覚めた

   わっはっはっは・・・・わっはっはっは・・・ 

   スッカラカーンのから財布、でもルンペン呑気だね”

という歌が流行った。 

 そのうちに、次第に軍国主義の時代が進み、社会生活が厳しくなると共に、乞食も減ったのであろうが、日米戦争直前の頃に天王寺公園に一人のルンペンがいたのを覚えている。髭もじゃで、ボロボロの汚れたシャツと股引きだけの、垢や埃でどす黒い半裸姿の男が、公園をうろついているのを何度か見かけたことがあった。見る度に薄汚れていった感じだったが、いつしか見なくなってしまった。あの時代のことだから、いつか警察に捕まり、強制労働でもさせられるようになったのかも知れない。

 戦後になると、大部分の市民が乞食や浮浪者になったようなものであった。戦災で家を失った人や、孤児になった人、傷痍軍人、引き揚げ者など、行き場のなくなった大勢の人々が浮浪者となり、天王寺公園などでは、群れをなして野宿していた。天王寺駅前には闇市が出来て、大勢の人でごった返していた。敗戦国の、思い出したくない悲惨な時代であった。

 野宿する人も多く、家で寝れると言っても、戦後の住宅事情は悲惨であった。戦後何年も経った頃に、国勢調査の調査員として、あちこち訪ねたことがあったが、焼け残った8畳一間のようなバラックに、3世帯も住んでいるのを知ってびっくりさせられてこともあった。交代で働きに出、交代で家で寝ていたのであろう。

 その頃は、天王寺駅の地下鉄から直接地上に出る地下の出入り口には、夜は地下のレベルでシャッターが下されていたが、その外の地上までの階段は、夜風を避けられるので、いつも夜は階段に座って眠る人たちで一杯であった。牢名主のような古参者が地下の一番風の当たらぬ所に陣取り、新参者は階段の一番上の、風のあたる寒い段 にしか座らせて貰えなかった。

 当時は昼間は闇市が盛んで、戦災孤児達も何や彼やのおこぼれに預かって命をつなげたが、時々警察の「狩り込み」があり、捕まると遠方の山奥へ運ばれて、捨てられるようなことさえあった。当時の浮浪者、浮浪児と言われていた人たちがその後どういう運命を辿ったのか、戦後の混乱期の記録も乏しいので分からないが、多くの人は戦争被害者として世間からも忘れられ、短命の悲しい運命を辿るよりなかったのではなかろうか。そんな時代がどのぐらい続いたことでろうか。

 時代が変わって、朝鮮戦争ベトナム戦争を契機に、経済復活を果たした日本は、万博などを経て、1980年代終わり頃になると、JAPAN as No1とか、一億総中流などと言われるようにさえなったが、それでも波に乗れなかった多くの浮浪者が結構いたことも忘れられない。

 ただ、同じ浮浪者と言われても、戦後の浮浪者とは異なり。工夫によって利用出来る資源が豊富になっていたので、戦後のようにすぐに命の危険に脅かされる可能性は少なくなったのではなかろうか。そうすれば、窮すれば誰しも懸命に工夫するものであり、人により生活の内容が色々工夫された時代であった。そういう人たち目当ての商売さえ出来ていた。

 もちろん、手押し車に全財産を積んで移動し、夜は公園のベンチや橋の欄干の少し広くなった所などで寝るような人が多かったが、冬は寒いので地下道の端に、段ボールを敷いて多くの人が寝ていた。今は変わったが、梅田の地下鉄の南出口を上った広場から、昔の阪神百貨店のビルを通って、新阪急ビルから地上に出れる長い地下通路は、冬になると、毎年、浮浪者が列をなして寝ていた時代が続いていたこともあった。

 毎日通っていると、新入りであろうか、女性の浮浪者がいて、初めのうちは綺麗だったアノラックが、日とともに次第に汚れて行くのを見て、こちらまで悲しくなったことがあった。長い間に、色々な浮浪者が、それぞれに色々工夫して、何とか世を凌いでいる姿を垣間見て来たものであった。中には興味深いアイデアや工夫をしている姿も見られた。

 毎朝のように、出勤の途中で見かけた一人の男性は、いつもカートに全ての財産を積んで歩いていたが、ある時見ると、カートが更新されているではないか。服装も替わっている。何処かに、浮浪者用の市場でもあったのであろうか。注意してみていると、他の人にもいつか、何かが変わっているのに気がつくこともあった。

 また、土佐堀川の堤の影に住人がいて、夏の朝見ていると 上半身裸で、手ぬぐいを肩にし、盥を持って堤を歩いて行くので、何処へ行くのか見ていると、堤の所々に花いけのポットが設けられていたが、花が枯れて空になったポットがあり、そこに雨水が溜まっているのを知っていて、そこで盥で水を掬って、行水をしていたのには驚かされた。 

 また、住まいとしては、公園の片隅などにブルーシートを利用して掘立て小屋を作っている人が多かったが、ひと頃の大阪城公園では、森の中にブルーシートのテントが散在して、森の中の村のような感じにさえなっていたことがある。そこで驚かされたのは、二階建てのブルーシートの小屋まであり、それに並んで、中庭を囲むように2〜3のブルーシートのテントが並び、まるで小集落のようになっている所さえあった。原始時代の集落の始まりを示唆しているかのようでもあった。

 最もユニークな自分だけの住まいを作っている人もいた。中之島の市役所のすぐ横の堂島側の防潮堤の外側である。そこに防潮堤を跨る非常用の階段が作られているが、その川側は階段の幅だけコンクリートの堤が出張っている構造になっている。その階段の裏側の下の空間を家として利用しているのである。何とか横になって寝るぐらいの空間があり、上下と片方の三方はコンクリートで頑丈だし、堤の外側なので誰にも見られない。絶好の隠れ家である。川を眺めながら誰にも邪魔されないで、我が家を楽しめるというわけであった。

 貧しくてもそれなりに頭を使い、少しでも快適になるよう工夫されていたようである。それでこそ、人間は文明を築けたのであろう。ただ問題は、道路や公園を管理する行政の方が、何とかその工夫を拒んで、外見の秩序を保とうとすることである。

  そこで、これらの人に対する行政の嫌がらせが始まる。公園を封鎖したり、有料にしたり、地下道から追い出したり、浮浪者が寝れないように、空いたスペースに岩や障害物を置いたり、ベンチに仕切りを作ったり、ベンチそのものを撤去したりと、嫌がらせとしか思えないようなことまでしていたと思うのは私の僻みであろうか。老人が一寸座りたいなと思うベンチまでが撤去されたりした。

 その頃の四天王寺は浮浪者の憩いの場所であった。本堂の外側の回廊には、所狭しとばかりに、浮浪者がぎっしり住み着いていた。昔、悲田院の歴史もあるお寺なので、困窮者を追い出すわけにもいかない。そうかといって、放置しておけば、建物が不潔になり、傷むことにもなりかねない。そこで、お寺では時々日を決めて、大掃除ということで、全ての寄生者を一旦追い出すようにしていた。勿論、お寺だから、また戻って来るのには目を瞑っていたようであった。 

 それからもう20〜30年。もうあの頃の人は、皆死んでしまったのであろうか。今はまたコロナの流行もあって、職を失い貧困に悩まされている人も増えているようだが、家を失い、浮浪者となった人はどうしているのだろうか。

 今は24時間営業の深夜喫茶やゲームセンターのような所で夜を明かす人が多いと聞くが、一時的にはそれらに頼っても、やがては、せめて普通の屋根の下で暮らせるようになって欲しいものである。生活保護法は施しではなく、権利である。菅首相は自助を強調するが、困った者をお互いに助け合うのが社会であり、国や社会はどんな人にも、最低限の寝る場所や、食べ物を保証する義務がある。

 どんな人でも、いつ、如何様な運命が待ち受けているかは誰にも分からない。お互いに助け合って、何とか皆が健康に生きていける社会にしたいものである。