昆虫採集

 箕面の滝へ行かれたことのある人はご存知であろうが、途中、瀧安寺の手前に昆虫館という、昆虫の展示や飼育をしている施設がある。これは昔、箕面が昆虫の宝庫であった名残である。私の子供の頃は、この昆虫館のある場所には、鯉料理を出す料理屋があり、すぐ前の川床には生簀が作られており、いつも多くの鯉が泳いでいた。

 それは兎も角、箕面の山は、私の子供の頃は、昆虫類が多いのでその観察や、採集にとって有名な場所であった。夏休になると、阪急の箕面の駅の前では、電車が到着するのに合わせて、「昆虫採集の方はお集まり下さい」という声が聞こえ、大勢の人が集まっては、一団となって箕面の山に昆虫採集に出かける姿が見られたものである。

 我々地元の子供たちは、そんな団体とは関係なしに、三々五々、連れ立って、毎日の様に、細めの竹に虫取り網をつけて担ぎ、取った昆虫を入れる小さな虫籠に紐をつけて肩から掛けて、山中を駆け巡ったものだった。

 一番のお目当はクロアゲハやアオスジアゲハなどの少し大型な蝶々であったが、飛んでいるのを捕まえるのは難しいし、なかなか網で捉えられるぐらいの所に止まってくれない。こんなのが一つでも捕まえられたら御の字だったのだが、なかなかそうはいかない。モンシロチョウや、黄色モンシロチョウの様な小さい蝶の方が多いし、取りやすかったので、それらで我慢しなければならない日も多かった。

 また、トンボも結構多く、ムギワラトンボやシオカラトンボなどが一番ポピュラーで、よく捕まえたが、オニヤンマの様なひと回り大きなトンボを捕まえたかった。しかし、ヤンマの類は高く飛んでいることが多く、なかなか取れそうなところに止まってくれないので、滅多に取れなかった。

 山を歩けば、偶然に古くなって半ば腐りかけたような倒木の切り株の裏にカブトムシがいるのを発見して胸をワクワクさせたようなこともあった。こうして取った昆虫を家に帰ってから、籠から取り出して動くのを観察したり、死んだ昆虫を並べて見たりするのが、また楽しみであった。 

 今でもそうだろうが、小学校の夏休みの宿題なるものがあったが、採集した昆虫をガラスのついた箱の中に、胴体を針で刺して固定して並べ、昆虫の標本箱を作ったものであった。蝶やトンボの他にも、蛾や蝉類、蜂やカブトムシにクワガタ、カミキリムシ、バッタやコオロギ、てんとう虫なども標本にしたものであった。

  蝉は箕面の山にもいたが、もっぱら家の近くで取ったことが多い気がする。夏の初めは、先ずは、少し小型ののニイニイゼミから始まった。これは比較的低いところに止まることが多いので、手で簡単に捕まえ易かった。本格的な夏になると、当時はもっぱらアブラゼミが主流であった。これは長い竹の棒を二本ぐらい繋いで先にとりもちをつけて高い枝に止まっているのを捕まえた。

 最近はクマゼミなど透明な羽をした蝉が主流になって、アブラゼミが減ったようであるが、当時はアブラゼミが多かったので、クマゼミが貴重な対象であった。そして、お盆が過ぎると法師ゼミが「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴き出し、夏の終わりを告げるのでった。夏休みももう終わりだぞとせき立てられるような感じがしたものであった、

 その頃になると、夕方に夕日に向かって歩いていたりすると、赤とんぼの群れがすぐ頭の上あたりをスイスイと飛んでいたことも忘れられない。そのうちに夜になると、何処からかコオロギなどの虫の声が聞こえて来たりしたものであった。

 最近は郊外に住んでいても、網戸のために蛾もカナブンも家の中に入って来なくなったし、蝶やトンボもめっきり減ってしまったが、子供の頃は今よりもずっと人と昆虫が身近にいて、お互いの交流があったような気がする。しかし、それも今ではもう遠い過去の思い出の中に残っているだけである。

 いつだったかの朝日新聞の歌壇欄に 載っていた、短歌にも下記のようなものがあった。

 開発かはた乱獲かめっきりと昆虫減りぬ夏の山野に(舞鶴市 吉富憲治)

  また、中学校のクラスメートであった手塚治君が、ノートにぎっしりと昆虫の緻密な写生を沢山描いていたことも思い出される。