こどもの頃の教育勅語

 小学生の頃の私にとっての教育勅語は、何かわからないものだが、大変大事なものらしく、祭日毎に講堂で立って聞かされ、いつもは校庭にある奉安殿に入っており、毎日その前を通る時にはお辞儀をして通ることになっているものであった。

 奉安殿は普段は二宮金次郎の像と並んでいて、特段気にすることもなかったが、祝日の朝だけは違っていた。礼服を着た校長先生が2〜3人の先生を引き連れて奉安殿の前に現れ、最敬礼をして、白手袋をしてから、扉を開け、前屈みになって恭しく勅語の入った箱を取り出し、それを三宝の上に乗せ、それを捧げ持った姿勢のまま、静かに校庭を横切って、講堂の演壇まで運んで行くことになっていた。

 その儀式はまだ生徒たちが登校して来るよりも前に行われていたと思うが、私は家が近かったので、たまたま早く学校へ行ったためかどうか知らないが、そんな場面を見たことがあった。当時は学校が焼けても、命と引き換えにでも、勅語だけは守るのが校長の使命とされていた時代であった。

 その頃の学校は今のように祭日でも全く休みではなく、先生も生徒も皆が学校に集まり、講堂に整列して教育勅語を聞き、校長先生の話を聞いて終わりという式典があり、それが終わって、やっとその日の休日が始まるのであった。ただ、式の後に紅白の饅頭が配られたので、生徒たちはそれが楽しみで、饅頭を貰うや否や、散りじりに走って家に帰ったものであった。

 このように教育勅語は祭日の式典には不可欠なものであったが、その内容については、子供達にとってはチンプンカンプンで、平素の学習にもあまり関係のないものであった。当時の教育方針は「論語読みの論語知らず」のように、先ずは訳が分からなくても、聞かせて、慣れさせ、暗記させるのが先ということにでもなっていたのであろうか。小学生の時に教育勅語の内容について逐一説明を聞いた記憶はない。ただ、高学年になるにつけ、「神武、綏靖、安寧、威徳・・・」という長い長い天皇の系譜とともに、教育勅語も内容の理解よりも先に、暗記が求められたように思う。

「朕惟うに我が皇祖高宗国を肇むること高遠に・・・」と言われても、始めから何のことかさっぱりわからない。ワタシとかオレとかワシならわかるが、天皇ともなれば変な言葉を使うものだなと思ったものだった。隣の友達と「天皇がチンだったら、皇后ならどう言うか知ってるか」などと小声で喋ったりしたものであった。

 それは兎も角、祭日毎に子供達は教育勅語を聞かねばならなかったが、聞かす学校の方も大変であった。恐れ多い天皇のお言葉を読む式典に、些細なことであっても間違いがあってはならないというので、祭日の前日には生徒たちを集めて予行演習まで行われていた。

 その時は教頭先生が演壇に立って「朕惟うに」だけを言って皆に「最敬礼」と号令をかけ、子供達に一斉に頭を下げさせる。その上で「そこの子頭が高い」などと言って子供達をチェックし、最敬礼が終わっても、しばらく頭を下げ続けさせた後に「御名御璽」と言って、「もう一度最敬礼」「もう一度頭を下げて」「はい終わり」「はい頭を上げて」と促す。生徒たちは頭を上げた途端に、それまで我慢していたので、一斉に咳をしたり、鼻をすすったりするのが普通であった。

 そして式の本番になると、校長先生が演壇に立ち、横に立った教頭先生の持ち上げた三宝から勅語の入った箱を取り、静かに演壇の上に置く。それから最敬礼をして箱を開き、勅語の巻物を取り出し、恭しく紐を解いて巻物の端にかけ、左手で巻物の軸を持ち、右手で慎重に巻物を少しずつ開き、開き終わったら両手で捧げ持ち、そこで「最敬礼」と言う号令がかかり、皆が一斉に頭を下げ、おもむろに「朕惟うに・・」が始まるのである。列席した者は全員気を付けの姿勢をとったまま、ずっと頭を下げて黙って聞かねばならなかった。兎に角、恐れ多いもので、万一にも誤りがあってはならないので、校長先生といえども真剣であった。

 子供達は教育勅語の朗読の初めに最敬礼をした後も、朗読が続く間頭を下げて黙って聞かねばならないのが苦痛であった。訳は分からないし、結構長いので退屈し、もう早く終わってくれないかなあと思いながら、怒られないように、そっと少しだけ頭を上げて、上目使いに周囲の様子を眺めることが多かった。やっと「御名御璽」になって、もう一度最敬礼して終わりで、やれやれというところで、皆が一斉に咳をしたり、鼻をすすったりしたものであった。

 この「御名御璽」については、子供の時にはどういう意味か分からず、天皇の言葉の終わりで、やれやれというサインとばかり思っていたが、長じて名前と印だと知ってを知り「なあんだ」とびっくりしたことを覚えている。

 教育勅語は嫌という程聞かされ、暗記してよく知っているが、当時どうして子供達にもその内容について、一つ一つの親切な説明がなかったのか、今でも不思議に思っている。