八月は特別な月

 一年は十二ヶ月あり、季節が巡り、それぞれの月にそれぞれの用事や行事、思い出があり、忽ちに年が巡ってしまうものだが、その中で私にとって一番特別な月と言えば、以前にも書いたが、やはり八月である。

 もともと、子供の頃から八月は夏休みがあって、特別の月であった。海や山へ遊びに行ったし、昆虫採集をしたりして、近くでも存分に遊ぶことができた。ただ、友人たちがそれぞれ田舎(故郷)へ帰るのに、田舎のない私には帰る所がなく、友人たちを羨ましく思ったものだった。

 子供の頃は別としても、八月の猛暑の続く間は、冷房のなかった時代には、夏は仕事も適当に手を抜いて休むべしという風潮があった上に、誰にとってもお盆が大きな年中行事で、帰郷したり墓参りをしたりで、誰しも非日常の生活の多い季節となっていた。

 しかし、私に取って八月がその上に特別の月となったのは昭和二十年からである。その年のことは今も忘れることができない。私の九十年の歴史はそこでポッキリと折れ曲がってその前後で全く違った世界の記憶を作っているのである。

 その年には八月早々、六日の朝八時十五分広島へ原子爆弾が投下され、閃光に遅れて轟音が響き、続いて見た雲ひとつない青空には、むくむくと登っていく悪魔のような原子雲が見えたのである。その強烈な印象は今もはっきりと網膜に焼き付いたままである。戦後も長い間、空高く上昇する入道雲を見る度にこの原子雲が思い出されたのであった。

 次いで七十二年前の今日、九日には今度は長崎への二度目の原子爆弾攻撃があり、十五日の正午には聞き辛い録音の玉音放送で敗戦を知らされて呆然となり、二十四〜五日には広島の焼け跡を宇品から広島駅まで歩いて復員することになった。この年はお盆など頭の中には全くなかった。

 それからもう七十年以上がいつの間にか経ってしまった。世の中はすっかり変わってしまったが、八月は色々な事が重なりいつも忙しい。昔に倍する七月からの猛暑を引き継ぎ、台風が荒れ、蝉しぐれが続き、花火や夏祭りがあり、ヒロシマナガサキ敗戦記念日と言っている間に、やがて土用波が押し寄せる頃となり、河原のジャズフェスティバルが催され、高校野球が始まり、決勝戦が終わるとたちまちお盆。

 そのうちに蝉の声がツクツク法師に代わって、夏の怠惰な生活に焦りを感じさせ始める。夜には早くも秋の虫の声が聞こえ始め、夜風が涼しく感じられるようになり、がんがら火祭りが通り、地蔵盆の燈があちこちでちらつくようになると夏ももう終わり。八月は足早に過ぎ去っていくのである。

 このように八月は忙しい中で、今なお、これでもかこれでもかと毎年戦争を、そしてそれに絡んで過ぎ去ってきた自分の人生を嫌でも思い出させることになる。何よりもそういう意味で私にとっての八月が特別な月なのである。

 なおその上に、一昨年には八月四日に心筋梗塞になり、循環器病研究センターに救急入院し、ステント治療で事なきを得たが、一週間で退院後、今度は血管性失神発作で再入院というおまけまでついて、八月を私にとって更に特別な月にしてしまったことまで付け加わった。

 老人にとっては冬の寒さも身にこたえるが、殊に近年の異常さを増した夏の暑さには殆ど耐えきれない。今はただその一刻も早い退散を願うばかりである。