鎮守の森

「村の鎮守の 神様の 今日はめでたい 御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ  朝から聞こえる 笛太鼓  今年も豊年 満作で 村は総出の 大祭  ドンドンヒャララ ドンヒャララ」

 今も忘れられない昔懐かしい童謡である。しかし、今では神社はあっても、昔のような鎮守の森とその周りの村の氏子といった関係はすっかり薄くなってしまっているようである。

 私が子供の時に住んだことのある箕面には、八幡神社と少し離れた所にある阿比太神社という二つの神社があった。どちらも新興の住宅地に囲まれて来ていたが、まだ昔からの部落も近くに残っており、それらの農家の若者も健在だったので、村と神社の関係も密接で、鎮守の森といった感じではなくとも、秋の神社のお祭りも、氏子の部落の人たちを中心に賑やかに行われ、子供達もそれを楽しみに待っていたものだった。

 まだ軍国主義の盛んな時代だったので、神社に毎朝参拝する人もあり、元からの村の人は勿論、新興住宅の人にとっても、何かにつけて神社は人々の生活の中に組み込まれており、日頃から神社と氏子の関係は密接で、それなりに神社は賑わっていた。

 秋のお祭りの時には大勢の人出で、出店も出て賑わったが、お神輿があったかどうかは覚えていない。しかし、お祭りの日には青年団の若者たちが、天狗の面を被り、両手に竹の筒を持ち、それを擦り合わせながら、子供たちを追いかけ回すような行事が行われたいた。竹の筒の端を細かく捌いたものを二本こすり合わせるとカサカサというような音が出るので、その音を出しながら天狗が走って来るというわけである。

 八幡さんと阿比太さんとは少し日をずらしてお祭りが行われていたので、片方が済んだらもう片方と、毎年二回子供達は場所を移動して、この天狗との鬼ごっこを楽しんでいたわけである。

  子供達は大勢集まって、天狗の来るのを見ては、皆で歓声をあげながら、あちこち逃げ回って喜んでいた。たとえ天狗に捕まっても頭を撫でられるぐらいのことなのだが、子供達は群集心理で半ば本当に怖がり、半ば面白がって追っかけっこをしていたものであった。

 もちろん、お祭りだから神社でも肝心要の神事やその他、色々なことも行われていたのであろうが、子供達にとっては儀式張った静かな行事などにはあまり関心がなかったで、何も殆ど覚えていない。

 出店なども沢山出ていた筈だが、駄菓子屋などの出店に並んで、パチンコ台が4〜5台置かれていた姿だけが忘れられない。生まれて初めて見たパチンコ台であった。戦後になって、あちこちでパチンコを見るようになった時、いつもその原点として、その時の神社の境内のパチンコ台を思い出したものであった。

 パチンコといっても、今のようなものでなく、極めて素朴なもので、画面の右下にある穴からパチンコ球を指で一つ入れては、バネを右手で弾いて球を打ち、球が上へ飛び出して上から下がる時に釘などにひっかかりながら、落ちて適当な穴に入れば当たりで、下の口から球が5個ほど出てくる。もし打った球がどの穴のも入らず、一番下の穴に落ちてしまえばそれでおしまいというゲームであった。それが今のパチンコの原型であったのであろう。

 当時コリントゲームと言うのがうちにもあったが、パチンコ台を寝かしたようなものであった。平面的な板状なもので、同じように右端のコーナーから、棒で球を打って平面状に球を走らせ、いくつか設けられている穴に入ればよし、入らなければ手元の真ん中にある穴の落ちるゲームであった。

  数年前に、両方の神社を訪ねたことがあったが、八幡さんは、ただ大きな木々に囲まれた薄暗い広場の奥に、しょぼくれた社殿がぽつんと立っているだけで、神主さんもいないのか人っ子一人いない感じであったし、阿比太さんは住宅に隠れて、何処にあるのかさえ分かりにくい有様であった。

 鬼の面を被った青年たちに追っかけられた子供達が歓声をあげて逃げ回ったあのお祭りはいつ途絶えってしまったのであろうか。恐らく、あの戦争で村の若者たちもいなくなり、戦後の復興や開発で村も街となり、新しい人たちばかりになり、もうお祭り自体を覚えている人も殆どいなくなってしまったのではなかろうか。