どこも同じ?

  先日、朝日新聞の「折々のことば」に鷲田清一氏が選んだ高見国生と言う人の言葉で「人間てね、親が徘徊して困ってると言う時は泣くけども、人が自分とおんなしことを話すと笑うんですよ。」というのが載っていた。

認知症の人と家族の会」の理事をしてられた方の発言らしいが、認知症の親の介護をしているとそれこそ泣きたくなるほど大変だが、同じ仲間がいて話をしたりすると、「ああ。あの人も同じか」と少し自分を客観的に見れるので、笑う余裕もできると言うことである。

 先日経験したことも同じような部類に入るものであろう。こちらは親の介護ほど大変な話ではないが、近くの喫茶店で女房と一緒にソフトクリームを食べている時だった。すぐ隣に座っていた二人連れの女性がしきりに何やかやしゃべっていたが、そのうちに聞こえてきた会話は、片方の女性が「最近うちの旦那が耳が遠くなって私の言うことが通じないことが多いので補聴器を買いなさいと言うのだが、旦那の方は私の喋り方が悪いからだと言って一向に言うことを聞かない」と言っていた。

 それを聞いて女房が思わず笑い、私も引きずられて笑ってしまった。女房がその隣の女性に「うちも一緒ですわ」と言ったので、そのの女性も意気投合、「どこも一緒ね」と四人揃っての大笑いとなった。

 我が家でも「聞こえない」「耳が悪くなったね」「発音の仕方が悪いからだ」「ちゃんと聞いていないからだ」などの応酬が続いている。どこのうちでも老夫婦は外では言わなくても、家の中では同じようなことを言い合っているようである。

 それがたまに他の人と話し合われると、自然と「お互いにうちばかりではない。どこも同じだ」と言う安心感が得られ、思わず笑いを誘い、知らず知らずに御互いに支え合うことになるのであろう。

 昔から「同病あい憐れむ」と言うが、病人の心を一番落ち着かせるのも、医者やナースの言葉よりも、同病者同士の話し合いであろうと言われている。