アメリカから帰国した頃は、ベトナム戦争反対の運動が日本でも盛んで、私もそれに共鳴していたので、丁度その頃盛んだったジョン・バエズの" We shall over come"の歌などをよく口ずさんでいたので、帰国してから生まれた下の娘はそれを聞いて大きくなったようなもので、同じメロディで”医者のバカ,医者のバカ”などとも歌っていた。
女房が英語の通訳の免状を持っていたこともあり、子供たちは早くから英語に親しみ”英検”などの資格も取っていたが、上の子を留学の時に連れて行かなかったこともあり、少し大きくなった頃には、女房が子供たちを連れてアメリカへ行ったこともあった。
そうこうするうちに娘達は成長し、上の娘は大学を出ると、テレビ局に入り、アナウンサーを経て、政治記者となり、下の娘は大学時代からアフリカからの留学生と仲良くなったりして、アフリカ文学などをやり、一人であちこち旅行するようになっていた。
娘が成人すれば、親として心配させられる場合に出食わすのは当然であろうが、一番心配させられたのは、フィリピンでマルコス追放、アキノ政権が出来た政変の時であった。上の娘が戦火の混乱状態のマニラに取材に行き、それとほぼ同時に、下の娘がアフリカへ一人旅に出かけたのであった。行くなといっても本人の意思が固ければどうしようもない。どうなることかと心配させられたが、幸い二人とも無事に帰って来てくれてやれやれと思ったものであった。
そんな後、上の娘は南米のフジモリ大統領の取材を最後に、テレビ局を辞め、アメリカの大学院に留学し、MBAを得て、大学院で知り合ったアメリカ人と結婚し、ニューヨークやボストンに住み、金融の仕事をしてアメリカに永住することになった。
一方、下の娘は就職した後も、あちこち旅行を続けていたが、アメリカで日本語を教えるポシションを得て渡米、UCLAにも入ったが、アメリカ人の牧師に見初められて、大学を辞めて結婚し、アメリカに永住することとなった。
こうして娘達は二人ともグリーンカードも得て、アメリカに永住することになってしまい、親だけが日本に残されることとなってしまった。まだ私が現役の二十世紀の頃の話である。