物忘れ

 まだ現役の頃から忘れ物や置き忘れの探し物をすることはしょっちゅうで「探し物をするのが人生だ」などと言っていたが、歳をとると物忘れが余計にひどくなってくるのは仕方がないのだろうか。

 若いうちは何も記録しておかなくても、頭がちゃんと覚えてくれていたものだったが、そのうちに仕事の約束事などが増えてくると、手帳のお世話にならなければならなくなった。

 それでも手帳に記録さえしておけば、間違いなく仕事も済ませてきたものであるが、退職して毎日仕事にも行かなくなると、せっかく手帳に書いていても、ついうっかり手帳を見るのを忘れて、約束をすっぽかしてしまうことが起こるようになる。

 それが更に進むと、手帳を見て出かける用意までしているのに、他の事に気を取られて、出かけるのを忘れかける様なことまで起こる。

 更には、昨日だったかには、スマホがなくなってあちこち探しても見つからない。おかしいなあと思って、ここにあるはずだという所をもう一度探したら、黒いスマホが黒い棚の上に載っていたので見えなかったのであった。目が悪くなっているので見えていても見なかったのである。充電しているのを忘れてどこにもないと慌てることもある。

 それに物の名前が出てこない。道端の花の名前、人の名前などがでてこない。女房に聞いても女房も同じこと。お互いに実態は理解し合っているのに名前が出てこない。そういう時には思い出そうと焦れば焦るほど出てこないものである。放って置けば何かをきっかけに、ひょっこり思い出すものである。

 新しいものの名前なども覚えが悪くなる。私は以前からは雲や、木の切り株、天井のシミ、はげ落ちた道の白線などが人の顏やある場景に見えたりして、そういったものを写真に撮って作品にしたりして喜んでいたが、たまたま先日そんなことを研究している人の言説をネットで見る機会があった。

 そこで、そういったものをパレイドリア(pareidria)ということを覚えたが、すぐ忘れて思い出せず、その度に見直したりしていたが、すぐまた忘れてしまうので、パレイドリアとメモに書いて机の片隅に置いておくことにした。また忘れるかも知れないので、すぐに見て思い出せる様にとの配慮である。

 これがひどくなると、認知症ということになるのであろうし、認知症になっているかどうかは自分ではなかなか分からないであろうから確かなことは言えないが、今の所一日おきのこのブログも欠かさず続けてられているし、散歩などに出かけても、道が判らなくなったりすることもないので、まだ生理的な老化の範囲内であろうと安心している。