箕面尋常小学校の思い出

 昭和12年の7月7日に盧溝橋事件が起こり支那事変(日中戦争)が始まり、それからずっと戦争が続いて昭和20年の8月に敗戦ということになったわけだが、昭和12年といえば、私は箕面小学校の三年生であった。

 その頃は子供の目から見てどんな世の中だったのであろうか。まだ箕面市ではなく、私の住所は「大阪府豊能郡箕面村字牧落百楽荘」であった。箕面尋常小学校が村でただ一つの小学校で、同じ所に村役場も青年学校や家政学校などもあった。尋常小学校といったのは、当時の小学校にはまだ高等科というのがあり、中学へ進学しない子がそこへ行くことも出来たからである。

 小学校の正門を入ると、すぐ右手に二宮金次郎の像が立っており、その少し奥には奉安殿というコンクリート造りの祠のようなものがあった。この両者は当時の小学校では必須のもので、金次郎の像は、今のリュックを背負ってスマホを見ている姿に似ているが、山で集めた薪を背負い仕事をしながらも本を読んでいる姿で、「刻苦勉励」せよという子供たちの見本の像であった。

 一方、奉安殿の方は教育勅語が収められた建物で、当時は天皇から下賜された尊い物で、たとえ学校が焼けても、勅語だけは守らなければならないものとされていた。そのために焼けない頑丈な建物に収納されており、奉安殿の前では必ず頭を下げてから通り過ぎなければならないことになっていた。

 その近くに確か砂場があり、鉄棒が備え付けられていたように思うが、そこからが広い運動場で、その奥の正面に新しい鉄筋コンクリーと建ての新校舎があった。しかし、その後ろにはまだ古い平屋の木造の校舎が二棟並び、その北側には小さな運動場があり、その先は塀もなく、西小路と言われていた見渡す限りの田園風景が広がっていた。細い道が一本だけ箕面の駅の方まで続いており、背景が箕面の山であった。

 現在のようにすぐ北を横切る箕面市役所に繋がる道などまだなく、現在の市役所の場所は田圃の中の堤に囲まれた池で、堤につくしを採りに行ったりしたものであった。

 小学校にはもう一つ、校庭の東側にい少し古くなった鉄筋コンクリート造りの二階建ての校舎もあり、1年、2年が裏の木造校舎を使い、3年、4年が東の校舎で、5年、6年が新校舎と割り振られていた。

 当時の箕面は、郊外の宅地開発が進みかけていた頃なので、生徒も地元の農家の子と、開発された宅地の子が半々ぐらいの構成であった。地元には中井とか西川姓が多く、同姓の子が多かったので、姓ではなく名前で呼ぶことも多かった。農家の子の中には6年生の時、伊勢神宮へ修学旅行に行く時に、初めて汽車を見たという子もいた。

 クラスも男女は別で、一学年3クラスで松、竹、梅となっていたように思う。箕面村の範囲は今の箕面市よりずっと狭かったが、それでも子供の中には遠くから徒歩で通っている子もいた。大塚君といって箕面の滝勝尾寺の中間にあった「政の茶屋」の子がいたが、夏休み中、学校で行われていた朝6時からのラジオ体操に、毎日片道一里を越す道のりを欠かさず来ていた。今では考えられないようなことである。

 私の担任の先生は森田先生といって隣の萱野村から自転車で通っていた。校長先生は栗山先生といって豊中からの電車通勤であった。当時の箕面はまだ田舎の感じの残っている所で、阪急の箕面線も一両だけで走り、回数も少なかった。村長さんと同じ電車に乗って「今日わ」と挨拶をするようなのどかな雰囲気であった。

 阪急の箕面線」は今と同じように学校のすぐ横を通り、牧落の駅も今と同じ所にあったが、学校の塀などはなく、線路寄りにあった講堂の横から、自由に線路まで降りることも出来た。その頃一銭銅貨だったか、ニッケル貨だったか忘れたが、電車の来ないうちに硬貨を線路の上において、電車が通って、車輪に踏み潰されて硬貨がペチャンコになるのを見て喜んだものであった。今なら許されないような悪戯だが、先生にも知られなかったのか、怒られた憶えはない。

 当時はまだ今のような安全対策というようなものがなかったので、生徒が行方不明になると、便所の肥壺に落ちていないか、近くの野井戸に落ちていないかのチェックが捜索の優先事項であった。野井戸は開口部より中が広いので落ちると出られないということであった。池にも安全柵などなく、夏などには危ないから泳ぐなとは言われていたが、勝手に泳いで溺れて死んだ子もいた。箕面の川でも河原へ降りてチャンバラごっこをしたり、小魚を掬ったりもした。

 その頃の子供の遊びとしては御多分に洩れず、べったん(メンコ)やコマ回しなどもあったが、少し変わったものとしては、タンポポの首切り競争というのがあった。花の咲いたタンポポを茎の根元で切り取って、一人がそれを花を下にしてぶら下げ、もう一人が自分のタンポポの茎を同様に根元を持ってぶら下げ、交互に自分の花の首で、相手の花の首を打って、首を叩き落とすゲームである。首が落ちれば負け、落ちなければ次の相手と争うことになる。落ちにくくするのに、遠くまでタンポポを探しに行って強そうな花を選んだり、茎に塩をこすりつけたりと色々工夫もしたものだった。

 私は兄弟が五人で、ほとんどが年子だったので、私が三年生の時には、一年から六年まで一学年を除いて、どの学年にも誰か兄弟がいたので、校長先生はじめ先生たちも皆顔見知りになっていた。一年生の弟が「お漏らし」をして黙って家に帰ったことがあり、担任の先生が私に聴きに来たこともあった。

 その頃は土曜日は半日で、日曜日だけが休日であり、祭日としては正月元旦の四方拝、2月11日が紀元節、彼岸が春季と秋季の皇霊祭、4月29日が天長節、10月日が神嘗祭 、11月3日が明治節、23日が新嘗祭宮中行事が中心になっていたようで、どの家でも戸口に日の丸の国旗を掲げなければならなかった。

 もちろん、祭日は授業は休みだったが、それぞれ式典があるので学校に行かねばならず、生徒は講堂に集められ、教師や来賓の前で、校長先生が教育勅語を読むのを聴かねばならなかった。勅語は恐れ多いものなので、式典に間違いなどがあると大変なので、学校では前日に教頭先生による予行演習が行われた。

 勅語が読まれる時には聴衆は終わるまでずっと頭を下げて聞かねばならなく、御名御璽で終わったら、皆が最敬礼をしてから、やっと頭を上げても良かったのである。それと同時に、それまで我慢していた皆が一斉に咳やくしゃみ、鼻をすする音が聞こえたものであった。

 教育勅語の内容は子供には難しいので、内容を全て理解出来るわけではなかったが、教師の噛み砕いた説明もないままに、頭から丸暗記させられたものであった。従って御名御璽が何のことかわからず、終わりで最敬礼の合図ぐらいに思っていた。裕仁という字に印鑑が押されていたのだったことを知ったのはずっと後のことであった。

 「朕惟うに」というのもなぜ天皇はそんな変な言い方をするのか不思議で、皇后ならどういうのだろううか、天皇が「ちん」なら皇后なら「まん」ではないかと友人とこっそり言ったりしたことを覚えている。ただ我慢して教育勅語を聞いた後には、低学年の頃は、式が終わると紅白の饅頭がもらえたので、それが楽しみで、式が終わると饅頭をもらって走って家に帰ったものであった。

 学校の授業のことについてはあまり覚えていないが、当時は日本歴史が重んじられ、「豊原葦の瑞穂の國は我が皇祖皇孫の・・・」とか「神武・綏靖・安寧・・・」など、

教育勅語以外でもなんでも暗記させられたものであった。それに天皇を敬うことが忠心愛国の基本とされており、日本がいかに良い國だということが強調されていたようである。

 先生がある時、地球儀で赤く塗られた日本を示し、「地球はこんなに広いのに、君たちはよくぞこの小さい素晴らしい国に生まれたものだ」と言われたが、その時、ふと他に大きな国や地方が沢山あるのに、どうしてこの赤い小さな島が良いのだろうと不思議に思ったことを覚えている。

 学校の行事としては遠足で箕面の滝を過ぎ、政の茶屋を通って、当時はまだ細い山道を通って勝尾寺まで行ったことがあったし、六個山で裾の方から皆で包囲陣を作りウサギを頂上まで追い上げて捕まえるようなことをした記憶もある。

  また、 学校の周辺には八幡さんと阿比太さんという二つの神社があり、今は途絶えてしまったが、両方のお祭りが前後してあり、どちらもお祭りの時には、天狗といって、若者が竹を短く切って端を櫛状に細かく切り込んだ竹筒を両手に持ち、互いにこすって音を出しながら子供達を追っかけるという行事があり、子供達が集団で逃げ回って楽しんだものであった。

  また、箕面公園が比較的近いのでよく遊びに行った。滝まではよく行ったものだし、滝の上から滝の落ち口近くまで行ったこともあった。今と違って河原まで降りて遊べるところも多かったので、よく河原で友人と戯れたり、小魚を掬ったりしてびしょ濡れになったこともあった。

 その頃の箕面はまた昆虫の宝庫のような所で、日曜の朝になると、箕面の駅前では「昆虫採集の人はお集まり下さい」という声が叫ばれていた。集団で昆虫採集に行ったものであろう。我々はいつも行っていたので、そんな集いには加わらず、独自で歩き回り、蝶やトンボを探し、人の知らないアゲハチョウのよくいる場所などを知っており、人には内緒の秘密の場所などとしていたものだった。

 その頃は少なくとも子供達にとっては、まだ世の中にゆとりもあり、自由に遊んでおられたが、支那事変の始まりとともに、戦争の影が次第に世の中を覆って行きつつあった時代だったのであろう。村からの出征兵士も出るようになり、初めの頃は村総出で見送りに出たものであった。

 確か上等兵だったと思うが、「XX上等兵出征万歳」と書かれた幟を立てて、村長さんの発声で皆が揃って万歳を三唱し、列を組んで牧落の駅に向かい、駅では反対側のホームに小学生が並んで、紙の日の丸の小旗を振り、出征兵士を乗せた電車が出ていくのを「雲湧き上がるこの朝、旭日の下堂々と・・・」と歌って見送ったものであった。

 その頃は「祝出征・武運長久」と書かれた日の丸に皆で寄せ書きをしたり、白い割烹着を着た「大日本婦人会」のおばさんたちが、千人針や慰問袋などに精を出したりしていた。「贅沢は敵だ」「一億一心、百億貯蓄」などという標語が掲げられ、「パーマネントは止めましょう」という歌が流行ったり、「東洋平和のためならば」とか「満州は生命線」などと言われたが、どうしてそうなのか子供には誰も説明してくれなかった。

 それでも当時はまだ勝ち戦だったので、勝ちに乗じた優越感からか、中国人を「チャンコロ」とバカにし、中国のどこかの都市を占領するごとに、地図の上に日の丸を立てたり、旗行列や提灯行列をして祝ったりもしたものであった。

 当時の日本の軍隊は皇軍といっていたが、まだまだ野蛮な軍隊で、補給が十分出来ず、現地調達で賄えというやり方が多かった。必然的に占領地で略奪をしなければならなくなり、無辜の住民を殺したり、婦女子に暴行をしたりするようなことが起こった。箕面でも、戦地からの復員兵が見られるようになると、彼らは非日常的な経験を話したくてたまらず、子供のいる所でも平気で、戦地の自慢話などをしたりしていたものであった。

 その他にも色々なことがあったが、私の小学校時代はまだ戦争は遥かに遠い中国大陸で行われていることであり、内地では政府や軍隊、大政翼賛会や警察などによる統制が強められ、庶民の生活も引き締められて行きつつあったが、戦争景気もあり、紀元二千六百年を祝う色々な行事もあり、子供達の周辺の生活はまだ平和だったとも言えるであろう。そんな中で私は1941年(昭和16年)の春に小学校を卒業した。