戦後間もない頃、私は名古屋にあった旧制度の第八高等学校生で、学校の寮で寝起きしていた。学校も空襲で焼けて、戦時中の航空隊の将校宿舎を使っていたが、高校ではどこでもその学校の寮歌を持ち、寮生たちが機会があるごとに寮歌を歌っていたものであった。そしてそれと共にどこの学校でもデカンショ節という、好きなように歌詞を作れるような歌も蛮声を張り上げて歌っていた。
当時はデカンショ節というのは哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエルにちなんで出来た学生たちの歌とばかり思っていたが、元々、この歌は丹波篠山の盆踊りの歌であったそうで、今でも篠山市は伝統文化として保存に力を入れているようである。
それがひょんなことから学生の寮歌となって拡がったのには、本当かどうか分らないが、歴史があるそうである。篠山市などによると、明治になって旧篠山藩が東京での勉学のために場所を設けて篠山人たちの便を計ったが、その若者たちが千葉県の海岸の宿で歌っていたのを、たまたま同じ宿の2階に止まっていた一高生たちが聞きつけ、デカルト、カント、ショウペンハウエルに結びつけて興味を持ち、学生の間で歌われるようになったということらしい。当時の旧制度の高校というのは多くの学生が寮生活を送っていたこともあり、それぞれの学校の寮歌などと共に、このデカンショ節も拡がったもののようである。
戦前の旧制高校の全盛時代にはもっと流行ったものらしいが、寮生活の若者たちは何か大声をあげて自分を表現したいものだし、歌詞も自由に作り、自由に歌えたこともあり拡がり、定着していった様である。
酒は飲め飲め茶釜で湧かせヨイヨイ おみき上がらぬ神はなし ヨイヨイ デカンショ
そう言えば丹波篠山の歌もあった。
丹波篠山山がの猿が 花のお江戸で芝居する
丹波篠山山奥なれど 霧の降るときゃ海となる
こういったクラシックなものから学生たちはもっと身近な歌も作った
教師教師といばるな教師ヨイヨイ 教師生徒の成れの果て ヨイヨイデカンショ
戦後のアメリカ軍の占領が始まっていたので、これを捩って
アメ公アメ公と威張るなアメ公ヨイヨイ アメ公ヨーロッパの成れの果て
などとも歌われた。またもっとオーソドックスなものとしては
同じするなら小さいことなされヨイヨイ 蚤の金玉八つに裂き ヨイヨイデカンショ
今は障害者の差別になるので歌えないが、当時うまいこと言ったものだなと感心したので、今でも覚えているのは
塀の向こうをチンバが通るヨイヨイ、頭見えたり隠れたり、ヨイヨイデカンショ
などというのもあった。もう遠い昔のことで、殆ど覚えていないが、もっと興味深い歌詞もたくさん作られ歌われていたに違いない。