九五歳の手習い

 年寄りの誤嚥や肺炎を防ぐために、日頃から息を強く吸ったり吐いたりする口呼吸や、口周辺や舌の筋肉運動、パ・タ・ハ・ラと強く発音を繰り返すなどが良いとされているが、笛やハーモニカなどの楽器を吹くのも良いであろう。

 私も最近は、時に食事の時に蒸せたりすることもあるので、アから始まる五十音を声を出して言ってみたり、パタハラと早口で繰り返したり、あるいは、昔からある口で拭いて膨らませるふいごのような玩具を吹いたり、ストローでティシュ・ペーパーを吸い上げたりするようなことを試みたりもしている。

 ところが、この正月にアメリカから帰ってきた娘が、リコーダーを吹くと良いから、練習して合奏でもしたらと言って、いきなりリコーダーを買ってきて、それを吹かされる羽目になった。

 もともと、私の子供の頃には、手近な楽器といえばハーモのカとオルガンぐらいしかなく、学校で音楽の時間もあったが、歌を歌うだけであった。歌も上手に歌えず、ハーモニカも吹けない私は学校の音楽も嫌いだった。家に姉のピアノがあったのに、私に出来ることは人差し指一本で「レドレミソミレミソラソ・・・」と「君が代」を叩くしかなかった。

 ましてや笛などまともに吹けたことがなかった。大人になっても楽器は習ったことも、触ったこともなかった。子供が小学校の頃、父親参観日に学校へ行った時に、生徒たちが一斉にリコダーを吹いているのを見て、自分のように吹けない子はどうするのだろうと思い、先生に尋ねたことがあった。「大勢に生徒の中には吹けない子もいるでしょう。そんな子にはどうするのですか」と。すると、先生は「皆そこそこには吹けますよ」との返事に驚き、そんなものなのかなあとびっくりしたことを覚えている。

 さて、そんな私に、リコーダーを渡されても吹けるわけはない。まずは指の置き場所、指の動かし方などから吹き方を教えてもらうが、老人には頭で覚えても指がついていかない。女房の方が音楽に関してはピアノを習ったことがあるだけに器用である。

 とても合奏するところまでは行けそうにもないが、せっかく買ってくれたリコーダーを無駄にするのももったいない気がするし、無理な練習はしんどいし、長続きしそうもない。まずは慣れることから始め、ボツボツやっていこうと思い、10年計画だと言って、少しづつ練習して、上手に吹けなくとも、その過程を楽しもうということにした。

 10年計画の終わりまで、果たして生きているかどうかも怪しいが、年貢の納め時まで、下手でもその過程を自分で楽しめれば良いのではないか。健康にも良いことだし、目的が達せられなくてもなどと言いながら、毎日音楽ならぬ奇妙な雑音を振りまいている。