戦争中の中学校には教練という学科があった。それを教えるために、どの学校にも配属将校といった少尉か中尉ぐらいの若い将校が派遣されて来ており、実務は常勤で中年の万年特務少尉という兵士上がりの人が仕切り、下士官だった補助員までついていた。
公式な儀式などには配属将校が出席していたが、現役軍人だったので威張っていた。校長が訓示で「米英何者ぞ」というところを「日米何者ぞ」と言い間違えたのを捉えて、その場で文句を言う程であった。万年特務少尉の方はずっと学校にへばりついているので、生徒との接触も多く影で「満特」などと揶揄されつつも、教練の授業の指揮をとっていた。
教練とは何をするのか。多くは隊列を組んで「気をつけ」「礼」「なおれ」「休め」「横むけ、横」「進め」「止まれ」など号令一下、一斉に皆が動く集団訓練から始まり、鉄砲を担いでの行進、射撃の練習など、基本的な兵士の行動様式を学ばされるのが主であった。
銃剣術と言って鉄砲に銃剣をつけたもので突き刺して相手を殺す方法もやらされた。銃剣の長さに作った木製の擬似銃で、立てた藁人形を突き刺す訓練もあった、この時は元下士官の出番であった。「そんなことでは人は殺せん。見とけ!こうやるんだ」とまるで自分が中国でして来たことを思い出すかのように、手本を示したものであった。この時は流石に少し嫌な気がしたので今も覚えている。
また、これらの教練の延長として、学外での隊列を組んでの行進などもあり、一度は夜行軍と称して、夕刻に天王寺公園に集合し、そこから隊列を組んで、徒歩で夜間に山を越え、田舎道を通って、奈良県の橿原神宮まで歩かされたこともあった。
ただ、その時のエピソードが忘れられない。、真夜中の小休止の時、皆が道端に適当な場所を見つけて座り込んで休んだが、ある生徒は夜空の薄明かりの光に少し明るく見えたのか、道端にあった野壺をコンクリートか何かと見間違えて、そこへ腰を下ろそうとしたものだから大変。まともに野壺にはまり込んでしまったのだった。おまけに、一緒に並んで休もうと思った友達までが、一緒にはまり込んでしまったのだった。
行軍の一行はそのまま進まなければならないし、付き添いの教師が大変だったらしい。近くの農家を起こして頼んで風呂を沸かして貰って入浴させたりしたそうであった。
もう遠い昔の事となってしまったが、教練も正課の授業だったのである。あのような時代はもう二度と繰り返して欲しくないと思うばかりである。