戦争で奪われた教育

 今年の高校卒業生はコロナに祟られて、折角の高校生活の最後を満喫することも出来ずに学校を追われ、しかも鳴り物入りの大学入試改革も、政治の迷走から見送られることになり、大変な思いをしたようである。朝日新聞天声人語でも「なぜ自分たちの学年だけこんな目に?天を仰ぐ日もあったであろう」と同情されている。

 天声人語ではそれに続いて「教育は政治の言葉で曲げられる。帆のない船のような日本で」とか「これほど我慢を強いられた学年は他に知りません」などと書かれていたが、思わず、私の学生時代の方がもっとひどい扱いを受けたことを思い出した。

 我々の場合は、今の高校はまだ旧制度の中学校であったが、1941年に入学し、1945年に卒業した学年になる。太平洋戦争が始まったのが1941年で、敗戦が 1945年だから、中学時代がまるまる戦争中だったわけである。

 それも大日本帝国が破滅した戦争だったので、学校教育どころではなかった。中一、中二の間は、まだ普通に授業が受けられたが、中三になると、もう教育より戦争への協力が優先された。多くの兵士が出征した後の国内は深刻な人手不足になったため、空襲に備えて、あちこちに大きな貯水槽を掘るために、中学生まで勤労奉仕と称して、動員しなければならなくなっていた。

 当時日本にはまだ建設機械などはなかったので、全て手作業でしなければならならず、スコップで土を掘り、それをモッコを担いで運ぶといった作業を繰り返す土木作業を、中学生までがさせられたのである。週に2〜3回は行ったような気がする。

 ただ、先生が工事の責任者に「生徒は土方とは違うのだ。家に帰って勉強しなければならないので、早く作業を終えて帰らせてくれ」と交渉してくれて、午後は比較的早く作業を終えることが出来た。

 ところが、その日はもう学校での授業はなかったので、多くの生徒は家に帰る前に、よく一緒に映画を見に行ったものであった。当時は、邦画の封切は紅系と白系の2本しかなかったので、両方を見終わると、それ以後は、もっぱら名画座のような所で、古い映画を見た。お蔭で戦前の名作映画はこの時に殆ど見ることが出来た。

 そして4年になると、朝から晩までの全面的な学徒動員が始まった。中学生はもう学校へは行かず、組毎に別れて、毎日割り振られた工場へ出勤し、一日中そこで働くことになった。私の行った工場はアルミの工場で、プレスされた飛行機の給油タンクの隅を金槌で叩いて少し補正し、上手く収まるように成形することが私の仕事であった。

 もう勉強どころではなかった。そして、翌45年の3月には、大阪大空襲で大阪はすっかり焼け野が原となり、御堂筋には、ガスビルと本町の角の伊藤万の建物だけが残っているといった有様となった。しかも、中学校での勉強は全然しないまま、我々のクラスだけは4年で卒業させられてしまった。学校も空爆を受け、卒業式もなかった。

 結局中学校3年までしか授業がなかったので、今の学校システムで言えば、今の中学校だけで卒業させられたことになる。卒業生はその後も勤労動員を続けたが、私は4月から江田島海軍兵学校へ行き、そこで敗戦を迎へて復員することになった。

 敗戦後の混乱の中で、1946年に旧制度の高等学校へ入学したが、まだ戦後の混乱期で、まともな教育も受けられなかった。3年間の旧制高校の後、大学へ入ったので、今に当て嵌めれば、中学校から高校を飛ばして大学へ行ったようなことになる。従って、今の学生のような受験勉強をした経験がなかったのは幸せだったのかも知れないが、他の学年の卒業生と比べて、長い間、どこかに基礎的学力の抜けているのを感じさせられたものであった。

 明治時代に学制が出来て以来、我々のように勉強の恩恵に与れなかった学年は他にはなかったのではなかろうか。今年の高校卒業生の嘆きはよくわかるが、もっとひどい目にあった学年も以前にあったことを知って、慰めとして貰えれば幸いである。

 ただ、文頭にあった「教育は政治の言葉で曲げられる。帆のない船のような日本で」という言葉は覚えておいて欲しい。時の政治によって 教育は天と地の違い程に変えられるものである。戦争は絶対に避けるべきことだけは決して忘れないで欲しい。