戦争時代の言葉

 先の大戦で形勢が悪くなってから、戦争が終わるまで、新聞でもラジオでも一番よく使われていた言葉は「鬼畜米英・鬼畜米英何者ぞ! 神風が吹く」であった。それが敗戦になるや否や途端に誰も言わなくなり、進駐軍だの民主主義だの闇市などに変わってしまった。人々の言葉は社会情勢によって、いつでもころりと変わるものである。

 ある時、こうして変化して使われなくなってしまった言葉を記録しておこうと思い、メモに書き出してみたことがあったが、最近、何かの拍子にそのメモが出てきた。今はもう使われない戦前、戦中の言葉ばかりである。戦争を知らない今の人たちがこれを見てどれだけ分かるか、分かっても、その深い意味や背景までは無理かも知れないのではなかろうか。何かの参考にでもなるかもしれないと思い、ここに適当に書きだしておこう。

 我々が子供の頃には、日本はすでに大陸侵略に活路を見出そうとして、中国の東北地方を侵略し、傀儡国家、満州国を作っていた。

 東洋平和のスローガンが掲げられ、関東軍、満鉄(南満州鉄道)、満蒙開拓 五族協和馬賊 匪賊 便衣隊などの言葉と共に、「敵中横断三百里」と言う本のあったたことも思い出される。五族協和の代表として招待されて来た子供達と一緒に六甲山に行ったこともあった。

 やがては日中戦争となり、次第に非常時、非常時だから我慢しろと言われるようになり、大日本帝國、皇国、神国、皇軍 天皇陛下大元帥陛下、現人神、行幸などが強調され、教育勅語が繰り返され、東條英機が戦陣訓なども発表した。一銭五厘で徴兵された若者たちは、千人針や、武運長久と寄せ書きをした日の丸と共に出征、恩賜の煙草や慰問袋、金鵄勲章まであったが、英霊としての帰還も見られるようになった。

 政党も大政翼賛会に統合され、街では軍人が風を切って歩き、国民には銃後の守り、耐乏生活を強い、国民服にモンペが推奨され、空襲警報、警戒警報で灯火管制、貯水槽や防火用水、バケツリレーや火叩きでの防火訓練に多くの国民が動員された。協力しない者は非国民として非難され、憲兵までが目を光らしていた。

 しかし、やがて米国との戦争になり、実際に空襲が始まると、逃げるのがやっとで、消火活動など間に合わず、建物疎開防空壕もあまり役に立たなかった。学童は強制的に疎開され、食糧不足で一日僅か二合一斥の米の配給では、いくら農林1号などの芋での代替や、楠公食や「すいとん」などと工夫しても限度を超えて、栄養失調、餓死に向かい、遂には、沖縄戦では行軍による住民の壕からの追い出し、手榴弾による集団自決まで起こった。

 戦争も最後近くになると、負け戦の連続。玉砕、転進が続き、本土決戦、最後の戦いなどと叫ばれるようになった頃には、学徒出陣、予科練など若者の特攻攻撃まで始まり、沖縄陥落後には最後の決戦、最後の決戦の連呼、鬼畜米英の叫びと共に、日本は神國、大和魂、天佑神助、神風が吹くなどと精神面しか強調するものがなくなり、遂に「忍び難きを忍んで」の敗戦の日を迎える事となったのだった。

 そして戦後の時代になるや否や、戦争関係の言葉は急に消え、世の急変に合わせて、進駐軍だの、民主主義だのとともに、闇市、買い出し、隠匿物資、物々交換、パンパン、靴磨き、浮浪児、傷痍軍人などと、生きるための最低限の生活の言葉が飛び交うようになったのもついこの間だったような気さえする。哀れな祖国の変遷であった。