「傘修繕、蝙蝠傘修繕・・・」

 私の若い頃には、まだ行商人がよく住宅地などを廻って、品物を売りに来たものであった。皆それぞれに通りを歩いて、特有な節回しの、決まったような言葉で呼びかけていたものであった。

 もう殆どど忘れてしまったが、「かさ、しゅうぜん、こうもりがさ、しゅうぜん・・・」などの呼び声は、今でも前の通りから聞こえてくるような気さえして、懐かしい。

 また、長い竹を何本も担いで、「たけ、たけ、あおだけ」と言いながら町内を練り歩いていた声もあった。今で言ったら廃品回収の小型トラックが何やらスピーカーで喋りながら町内を廻っているようなものだが、どこかに哀調を含んだ生の声とは情緒が違った。

 私は子供の頃、西宮の香櫨園に住んでいたことがあるが、当時は埋立地などなく、海水浴場があり、まだ浜での地引網でイワシが取れたので、収穫がある毎に、「イワシイワシ」と元気な掛け声をかけながら、漁師さんが街を廻っていたものだった。

 その他にも色んな行商人が住宅地にも入り込んでいたような気がするが、思い出せるのは、タバコの羅宇屋、靴修繕屋などである。勝手口の近くに座り込んで修理していたような記憶がある。この他にも、もう思い出せないが、それぞれに独特の節回しで呼びかけながら通りを歩いて商売していた人たちがいて、時々、我が家の前も通って、のどかな呼び声を聞かせてくれたものだった。

 また、どこかの大売り出しのある時などには、ちんどん屋さんが隊伍を組んで、笛や太鼓で賑やかに街を練り歩いたので、音を聞くや否や、子供たちは家から飛び出して行列を見に行ったものであった。

 こんな風に辻々まで廻らなくとも、決まった街角や広場や公園などでの行商も多かった。豆腐屋さんや石焼き芋、ラーメンや蕎麦屋さんなどが屋台で、いつも大体同じ時間に、同じ場所で店を開いていたことが多かった。

 子供達に人気のあった紙芝居屋さんやアイスキャンディー屋さんもそんな所に多かった。生学4、5年の頃、当時はチフス赤痢が流行っていたので、外での立ち食いは厳禁だったが、友人と一緒にこっそり食べたアイスキャンディーの美味しかったことを今でも覚えている。

 もう一つ、行商といえば思い出すのは、時々、家に現れていた呉服屋さんのことである。何本もの反物を入れた大風呂敷を肩から背負って座敷に上がり、いつも母と向き合って、次々と反物を転がして拡げながら、色々会話を交わしていた光景も忘れることが出来ない。

 今のように全ての商売が大規模になり、個人的な売買の人間関係が薄くなってしまった咋今では、全て遠い昔の思い出になってしまったが、戦前から戦時、戦後の混乱期、復興、高度成長、停滞と色々な時代を経て、長く生きていると、こんな時代のあったことも懐かしく思い出されるわけである。