子供の時の東京の友達たち

前註:(おことわり)

『昔のことを思い出して、以下の文章のようなものを拵えて、こんなものも載せたらと思って用意したが、たまたま、昔の文章の目録を見返して見ていたら、すっかり忘れていたが、既に2020年4月11日に全く同じようものを書いて載せているではないか。

 驚いたことに、当時の東京市歌を思い出したので、ついでに記載しておこうと思って載せることにしたのだが、それまで既に加えられていることには本人がびっくりさせられた。

 歳をとると物忘れがひどくなるので、つい先ほど言ったことを忘れて、また同じことを繰り返して、若者に嫌われると言われるが、まさにこれだなと思わされた。

 それでも折角書いたので、年寄りの物忘れを象徴するものとして、再録しておこうと思ってこのまま載せることにした。老いの繰り言として、適当に読み飛ばして頂きたい』

 小学校四年と五年の二年間、父親の仕事の関係で東京に住んだ。親の思惑もあり、東京でも山手と言われていた、当時の芝区白銀今里町に住み、途中から目蒲線の洗足に移った。

 近くには久原房之助藤原銀次郎の屋敷があり、朝香宮邸(現庭園美術館)も遠くなく、少し足を伸ばせば、今はホテルになってしまったが、品川駅界隈の、北白川宮初め華族の屋敷(現プリ ンスホテルなど)が続いていた。

 学校も転校して そこにある白銀小学校に行くことになった。この学校は当時東京でも名の知れた学校で、そのため父がその校区で借家を探したようで、後日、家族で東北地方に旅行した時、地元の人に、雪の結晶に蛍の乗っかった校章から、すぐに白銀小学校と当てられたこともあった。

 この小学校は敷地を完全に取り囲んで校舎が建てられており。真ん中が運動場になっていたが、その運動場も全てアスファルトで舗装され、土の地べたはどこにもなかった。また、驚かされたのは、昼休み時間になると、近くのパン屋さんが校内に出張窓口を開き、生徒たちの中にはそこでパンを買って食べる子もいた。

 また大金持ちの子もいたし、遠くから電車やバスで通学している子も多かった。仲の良くなった同級生に成毛仁吉という子がいたが、父親が何をしていた人か知らなかったが、大金持ちで、後の麻生高校には成毛講堂と称するものがあったし、当時、陸軍と海軍に戦闘機を一機づつ寄付したことを新聞で知って驚かされた。

 その子の家はそれこそ広い大きな豪邸で、庭の池には鯉が何匹も泳いでいたし、鉄筋コンクリート造りの家で、雨戸は電動シャッターで、室内のボタンひとつで操作出来た。女中さんも何人もいて、それを統括する奥女中が一人いて、そのお目通しがないと、友達でも家の中へ入れてもらえなかった。

 その子の名前は仁吉であったが、仁の字は当時の天皇裕仁であり、普通の人にはつけられない字なのだと聞かされた。また小学校の担任の教師が、個人的にその子の家庭教師になっているのにも驚かされた。

 もう一人の仲良しの子は目蒲線武蔵小山から通っており、私も途中から同じ線の洗足から通うようになったので、よく一緒に行動し、家にも遊びに行った。親は何をしている人か知らなかったが、ここも大きな家で、広い芝生の庭の端が植え込みになっていたが、大きな木が沢山生えていて、中へ入るとまるで森の中にいる様な感じであった。

 更にもう一人、よく行動を共にした友人がいて、確か坂東くんとかいったが、この友人は自分の家が、近くの当時の大蔵大臣をしていた誰かの家より大きいことを自慢していた。その友人と子供だけ二人で当時の50銭タクシーを止めて、どこかへ行った記憶がある。何をしていた家庭なのか知らないが、私の親に言わせると成金だと言うことであった。

 洗足の家の向かいには、恐らくナチスだったであろう、ドイツ大使館員のオット・H・ブルメスターという若い夫婦だけの洋風の洒落た建物の家があり、白と黒の毛の長い子犬を二匹飼っていたが、その後どうしたかは知らない。

 わずか2年間の短い付き合いであったが、さすが東京だと思わされた金持ちの友達たちであった。やがて戦争の時代となり、お互いの消息はばったり断たれてしまい、その後どうなったのか全く判らなくなってしまったが、子供の時の淡い思い出であった。

 今でも残っているのかどうか知らないが、当時よく耳にした、東京市歌を何故か今でも覚えているのでここに記しておこう。

一、紫匂う武蔵の野辺に、日本の文化の花咲き乱れ、月影入るべき山の端もなき、昔の 広野の面影いづこ

二、高殿はるかに連なり聳え、都のどよみは渦巻きひびく、帝座(みくら)のもとなる大東京の、延び行く力の強きを見よや

三、大東京こそ我が住むところ、千代田の宮居は我らが誇り、力を合わせていざ我が友よ、我らの都に輝き添えん