野壺(肥溜め)

   便壺、肥壺、野壺、肥溜めなどといっても今の若い人々には分からないかも知れない。

 便壺といえば水洗便所が一般に普及する以前のトイレの便を受ける壺のことである。水洗便所になる前は、この便壺に溜まった便は、定期的に近在の農家の人が、天秤棒で担いだ肥桶を持って現れ、トイレの下に設けられた開口部から柄杓で便を汲み取って肥桶に入れて持ち帰ってもらったものであった。汲み取り屋さんなどと言われていた。

 その開口部があるので便所は寒く、また、蛆虫が発生しやすく、蝿が便器の下で舞っていたりしたものである。便器に木の蓋などをしているところもあったが、蝿にも臭いにもあまり効果はなかった。小さな子供が便壺に落ちる事故や、開口部から忍び込む泥棒が問題になったこともあった。学校で低学年の子がいなくなったら先生がまず探すのが便所であったのである。

 百姓さんが持ち帰った便はいったん田んぼの隅に設けられた、もっと大きな肥壺に蓄えられて、必要な時に田んぼに撒かれ、稲作の肥料、下肥として使われていた。化学肥料が使われるようになる以前は、この人糞が最も大事な稲作の肥料だったのである。この田んぼの隅の肥壺は野壺と言われたり、壺でないものもあり、肥溜めなどとも言われていた。

 この野壺の中に蓄えられた便は次第に発酵するので、壺の表面は幕を張ったようになり、どうかすると液体のようには見えないようになるのが普通であった。

 田の片隅にあり、表面が液体のように見えないので、田舎の子供達が遊んでいるうちに、誤ってこの肥溜めに落ちることも時々あったらしく、落ちたら戒名するという風習などもあったようである。また、酒に酔って帰る途中で野壺にはまった人が、女性に化けた狐に誘われて風呂へ入ったと思っていたら肥壺だったというような話もあった。ついでに言えば当時は畑の中に野井戸というものもあり、そこへ落ちる子供もいた。

 まだ日本で水洗便所が普及したのは大阪万博の頃からであるから、今から思えば嘘のように思えるが、学校でも定期的に寄生虫の検便があった時代、バキュームカーが家々を廻って各家庭の肥壺から便をを抜き取って行った時代、田の肥料として便が用いられなくなって、便を大量に海へ流したために、大阪湾の海の色が黄色く濁って問題になった時代などを経て、和式便所も減り、現在のような水洗式の洋式便所がトイレとして一般化したのである。

 そんなことを前提として、私が経験した野壺の話はこうである。戦時中、中学生であった我々には教練という学科があり、集団行進や鉄砲の扱い方、銃剣術などと軍事訓練が課せられていたが、その一環として、夜行軍として天王寺から橿原神宮まで夜道を行軍したことがあった。途中で真っ暗な田舎の田んぼの間で休憩することになった。

 休憩の号令とともに、皆一斉に整列を解き、思い思いに周囲に散らばって道路脇に腰を下ろした。あたりは真っ暗なので薄明かりを利用してそれぞれが道端に座り込んだのだが、中の一人が友人と一生に座る場所を探した時、丁度そこに野壺があり、表面が薄明るく光っているので、コンクリートか何かのような固い感じがして、そこに腰を下ろそうとして、まともに野壺にハマってしまった。そこへ、友人も一緒に座ろうと後から飛び込んだものだから、後からの者が先の者の頭を抑える格好となり、二人とも全身すっぽりと野壺に浸かってしまった。

 びっくりして二人は何とか這い出たものの、夜の真っ暗な田圃道である。驚いて途方に暮れた先生が仕方がないので行軍は中止して、近くの農家を起こし、風呂をを沸かしてもらって、二人の体を洗う羽目になったようである。

 我々はその二人や先生などを残して、夜行軍を続けたので、後の始末がどうなったのか詳しいことは分からずしまいになったが、今でも忘れられない戦時中の思い出話である。

 もう今はないから良いが、野壺は表面に幕を張るので夜など返って明るく見えたのである。