老人の街

 私が住んでいる所は、阪急電車宝塚線の池田であるが、阪急電車の創設者である小林一三氏が明治時代に庶民の郊外住宅地として、初めて開発した室町という一角である。呉服神社という織姫の伝説に由来する神社を取り囲む様にして、周囲の田を埋めて作られたもののようである。

 当時の中流家庭の住宅地として、一軒あたり百坪を最低限とした住宅地で、初めの頃は外界から少しかけはなれたような所で、そこだけのコミュニティを作っていたようで、中には郵便局から警察の派出所、集会所もあり、米屋に八百屋、薬屋さん、それに仕出し屋さんまでが集まった一画まであり、自治会立の幼稚園も作られていた。

 しかし、出来てからもう百年以上も経つと、今では昔の面影も薄れ。街並みの外観もすっかり変わってしまった。集会所に幼稚園、それにお米屋さんだけは残っているが、他の商店は姿を消し、街並みの外観も殆ど昔の面影をとどめなくなってしまっている。

 古くからの住民も入れ替わり、三代目、四代目位の人も残っているであろうが、もう殆どの人は後から移り住んできた人のようである。我が家も昭和三十六年に移り住んだ組であるが、もう今では古参である。当時の隣近所の人達は皆死んだり引っ越したりでもう殆ど残っていない。

 ひと頃は、夜間に救急車のサイレンが聞こえる毎に「ああまた老人の誰かが亡くなったのだなあ」と思った時期があったが、世代交代を示すもので、その頃が古い住宅地の最後の時期の名残だったのであろうか。

 当時はまだ昔の風情が残り、板塀や垣根で囲まれ、小さな庭のある木造瓦葺きの家が続き、落ち着いた感じのする閑静な住宅地であった。ところが、近年は敷地を二分割して敷地いっぱいに新建材の家が立ち並ぶ姿に変わってしまった場所が多い。我が家も角から三軒目であったのが、今や五軒目になってしまっている。

 それに、今では車が必須とも言える世となり、道路に面した車庫を配したオープンな前庭に、切り妻の外観の家が連なるようになり、間に残ったブロックやコンクリートの壁の続く広い家とが入り混じって並ぶ景色に変わってしまった。

 ただ、こんなに家も新しくなり、住んでいる人達も入れ替わっているはずなのに、何故か、若い人たちが少ない。歳をとってから引っ越して来るのか、引っ越してから歳をとったのか、いずれにしても、室町の本通とでも言うべきメインの道路を行き交う人たちを見ると、老人ばかりのように見える。

 隣近所に子供の姿を見ないことも大きいが、元々こちらが老人で、若い元気な人たちが出勤する頃には、余り外に出ないので会わないだけかも知れないが、通りで出会う人隊を見ていると、本当に老人の街だなとつくづく思わせられるのが日頃の姿である。

 手押し車を押していく老人が前を歩いているかと思うと、向こうから杖をついた老人がボツリボツリとやって来る。その後ろからは、またカートを押した老婆がやって来る。途中の診療所から出て来た老人も杖をついて、危なげにヒョロヒョロと遠のいていく。

 元気な大人や子供たちと行き交うことは滅多にない。昔なら考えられなかった光景である。世の中はすっかり変わってしまったのだなあと感じさせられないではおれない。

 たまたま、隣町の数年前に出来た、病院や広い公園まで伴った新しいショッピングセンターへ行くと、公園では子供たちがあちこちで元気に遊んでいるし、ショッピングセンターでは若い人たちで賑わっている。いつもあまりにも違う街の姿に、こうも違うものかと思わせられる。

 少子高齢化が進み、人口が減っていくこの国は将来どうなっていくのだろうかと思わざるを得ない。