私が初めてアメリカへ行ったのはもう63年も昔のことになる。先に書いた通り、11日間もの暗い太平洋の船旅を終えて、サンフランシスコの港に着いたのであった。今と違い、旅行のガイドブックなどもないので、どんな街でどうなっているのか、人づてに聞いた話しかわからない。
先輩でサンフランシスコに留学していた人がいたので、手紙で出迎えを頼んでいたが、船のデッキから見ても見当たらない。一緒に乗っていた客たちは次々に降りていく。一人取り残されて少し不安になった。このまま誰も迎えに来なかったらどうしたらいいのだろうか。それこそ右も左も分からない土地である。
それでも少し待っていると、埠頭にに知っている顔が現れてホッとした。その先輩の案内で、港に近い安ホテルに連れて行って貰って、やっと一安心。先輩とは仕事の関係もあり、ホテルの前で別れた。
サンフランシスコで確か1〜2日泊まり、そこからは飛行機でフィラデルフィアまで飛ぶことになっていたので、その翌日だったか、近くの街の様子だけでも見ようと思って街へ出た。ただその前に、驚かされたのがホテルのトイレであった。便器の水を流したら青い水が出て流れるではないか。当時はまだ日本ではブルーレットなどといったものはなかったので、どうなっているのだろうと少し不思議だった。
外へ出て、近くの街の様子を見、少し足を伸ばして、フィシャーマン埠頭や市役所などを見学し、日本人街だったかと思うが、日本人の食堂に入った。そこで、何か丼ものを食べて勘定しようとしたら、店員さんに「1円50銭です」と言われてびっくりした。小さな日本人社会では祖国懐かしさから、ドルを円に置き換えて言っていたようである。
街へ出てまず驚かされたのは通りを歩く人たちの服装であった。丁度、5月の初めだったが、立派な黒っぽい毛皮の外套を着て歩いている女性に見とれていたら、すぐその横を、まるで水着のような太ももまでを露出させた若い女が行くではないか。日本では考えられないその光景が今も強く網膜に焼きついたままになっている。男性も日本のように背広姿は少なく、派手なシャツ姿や短パンの姿も入り混じっていた。
一旦ホテルに戻り、出直して街の中にあった航空会社の受付ロビーに行き、飛行機の予約をし、翌日にフィラデルフィアまで飛ぶことになった。ところが当日になって受付に行くと、飛行機が延着するとの変更がアナウンスされているではないか。フィラデルフィアの空港に留学先のボスが迎えに来ることになっていたので、時刻変更の連絡をしなければならない。
そこでカウンターの女性に到着時刻を確かめると、Four Tenと教えてくれた。ところがそれをFourteenと聞き違えた。それを電話でボスにそのまま伝えたものだから、ボスの方もおかしいなと思ったが、わざわざ電話で伝えた来たことだし、それに合わせて空港へ行き、長い間待たせることになってしまったのであった。今思えばアメリカで24時間の時制を使うことなど先ずないので、聞き違えることもなかったのであろうが、これが最初の失敗となってしまったのであった。
飛行機の出発が遅れたので、同じ待たされ者同士が喋ることになるが、毛色の変わった東洋人に対しては、先ずはどこから来たのかということになる。当時はアメリカではまだ日本人は少なかったので、「フィリピンから来たのか」と聞かれたのだった。そういえば横浜では、中国人と間違われたこともあった。
そこでようやく飛行機に搭乗し、今度は飛行機なので広いアメリカ大陸もあっという間に飛んで、フィラデルフィアの空港に着き、ボスに迎えて貰い、ボスの車でボスの家まで送って貰って歓待され、そこからアメリカ生活の第一歩が始まることになったのであった。
特別な体験だったので、この時のことは今もよく覚えているが、もう遥か昔のことになる。この時以来、アメリカへは何度往復したことであろうか。しかし、この最初の船で行ったこの体験は、今も大事に心のうちに仕舞われている。