今では誰しも日本からアメリカへは一飛びで簡単に行き来してしまうが、航空便のまだなかった戦前は日本郵船や大阪商船の船が2〜3週かけて、太平洋を行き来していたようである。
しかしそれも戦争で途絶え、戦後、氷川丸が1958年に復活したものの、それも1960年には廃止され、以降はもっぱら航空便による往来となったのである。
戦後の日本はまだ貧しく、三等国だの、日本人の知的レベルは12歳だなどとも馬鹿にされ、まだジャップなどという言葉も残っていた。朝鮮戦争でのアメリカの下請で、ようやく復興の兆しが見え始めてきた頃であった。まだ1ドルが360円の固定相場だった上、外貨の日本からの持ち出しも一人300ドルに制限されていた今では考えられないぐらい貧しい国であった。
そんな時、1961年にアメリカに行かねばならないことになり、今思い出しても大変であった。戦争中が学生時代であった我々の世代は英語などまともに教育されてこなかったし、アメリカはつい先刻までの敵国である。戦後も民主主義の有り難さには感激していたが、日米安保条約には反対で、「アメ公帰れ!」などと叫んでいた。1960年は安保闘争で日本中が揺れた年であった。
その2年前に結婚し、1年前に子供が出来たところでもあった。大学でも丁度博士論文が認められた直後だったので、丁度良いだろうと狙われてアメリカくんだりまで行かされることとなったのであった。初めは家族連れを考えたのだが、子供がツベルクリン反応が陽性になったので、女房には後から来ても貰うことにして、とりあえず一人で出かけることにした。
それに、何より飛行機でアメリカまで行くお金がないので、船で行くよりなかった。それも客船などでなく、太平洋を行き来している貨物船に乗せて貰う算段であった。川崎汽船の貨客船だったので乗客も十人ばかりいて船長さんと一緒に食事をして過ごした。
日本からアメリカまでの最短距離は大圏航路になるので、船は横浜を出てアリューシャン列島寄りに北太平洋を横切ることになるのだがそれでも11日かかったのであった。毎日毎日が暗い空と海、白い波の飛沫に横揺れ、縦揺れの連続で、2〜3日のうちの乗客は皆、反吐を吐いてダウン、元気だったのは私と10歳ぐらいの男の子だけであった。
他の乗客はアメリカへ移住する家族や、東大出の私同様な留学家族、得体の知れない男女などであったが、食卓は船が揺れても食器が落ちないように、テーブルの端は全て少し持ち上がった柵で仕切られていた。夜は私の部屋がエンジンルームに近かったためか夜中エンジンの音を聞かされた。
しかし単調な日が10日ばかり続いた後、パーサーの人がもうすぐアメリカ大陸が見えてくるはずですと教えてくれて望遠鏡を貸してくれた。初めは海と空だけであとは霞んで何も見えなかったが、そのうちにアメリカ大陸が見え始め時間とともの大きくなり、そのうちにGolden Gate Bridge(金門橋)が見え始め、ついにはその下を潜ってサンフランシスコ湾に入っていく頃にはもう感激いっぱいになっていた。
湾内を進んでサンフランシスコ港に近づき、あの摩天楼が並んだ夢のような世界が近付いてきた時の光景は今も忘れることが出来ない。パーサーの人は「あれを見るといつも墓場を思い出すのです」と言っていたが、ニューヨークにしても同じで、日本の墓場を思い出させずにはおかない。私は今も我が家の近くの川縁にある市営の墓地を勝手にリトルニューヨークと呼んでいる。
サンフランシスコを訪れた人は多かろうし、Golden Gate Bridgeを渡った人も少なくないであろうが、それを下から潜ってサンフランス湾に入り、有名な旧監獄島を見て港に着いた日本人はそれほど多くはいないであろう。
長くなるので、続きは次に機会に譲るが、全てもう悠に60年以上も昔のことになる。その後何回アメリカへ行ったり帰ったりしたことであろうか。それでも最初のこの経験は今も鮮明に覚えている。