老年的超越とは?

 もうこの夏が来ると満年齢で言っても92歳になる。よくここまで生きて来たものである。

  17歳で戦争が終わって、突然変わった混乱の世の中に放り出され、闇夜の中を徘徊せざるを得なかった戦後にはニヒリズムに陥り、それを引きずって生きていた。その頃、頭によく浮かんだのは、広遠な宇宙の中での矮小な人類の存在であった。

 人類が如何に相争って栄えたとしても、永遠とも言える宇宙の存在から見れば、人類の歴史などほんの一瞬の出来事に過ぎない、戦争に勝とうが負けようが、文明が進もうが滅びようが、人類そのものが時が来れば必ず滅びてしまうのが必然である。そんな中で、その人類の中での、またその一滴にも当たらないような個人がどう生きようが死のうが、何の変わりもないというような思いであった。

 現実から逃避したデカダンスニヒリズムであった。精神的に虚無に追いやられた若者の必然的な結果だったのかもしれない。若い時には自殺も考えたぐらいで、そんな考えを引きずって生きていたので、42歳の厄年まででも生きていたらもう充分だと思っていた。

 それが、世の中が落ち着き、仕事が出来、家族が出来て、現実に立ち向かわざるを得なくなり、日日の生活に追われている間に、いつしか42歳は瞬く間に過ぎてしまい、60歳で定年になった。それでも、まだ元気だったし、家族もいるし、仕事もあれば、働くのが当たり前のように惰性のまま働き続けているうちに、いつしか70歳、80歳を超えてしまった。その頃になると周りの友人も次第に消えて行って、気がついたらもう90歳ということになっていたわけである。

 ここへ来るまで、忙しさにかまけて、直節関係する現実の世界の中での思考や応対に追われ、広い人類の歴史や宇宙との兼ね合いで自分の位置付けなどにはあまり思いを巡らす機会も少なく過ぎてしまった。ところが、90歳も過ぎたこの頃になると、次第に嫌でも残りの人生が短いことを意識せざるをえなくなり、死が近づくとともに、自分の命や運命だけでなく、自分を取り囲む人類や世界、さらには広大な宇宙の時空の中での人類、その中での自分の存在の位置付けなどが頭に浮かび上がってくることが多くなった。

 戦後の時代に囚われていた、大きな宇宙の時空の中での人類、その中での自分の存在の矮小さが再び戻ってきたような感じである。何十年ぶりかの久し振りの宇宙への回帰とも言えるかも知れない。ただ戦後のニヒルな焦燥感で見た宇宙ではなく、今は宇宙の無限の時空の中での客観的な人類の位置づけを静かに認め、自分の存在を客観的に眺めようとする立場だと思いたいが、結局は同じかもしれない。

 自分が死んでも、人類の歴史、地球や宇宙の歴史は続く。大きな宇宙の時空の中のちっぽけなほんの一瞬に過ぎない人の一生、それを客観的に見ながら静かに受容しようとするものであるとしたい。逃避と諦観の違いだけかもしれないが。

 何となくそんなことを感じていたら、老人的超越Gerotranscendenceという言葉に出くわした。老年病学の領域で使われているようで、スエーデンのTornstamと言う人が言い出したものらしく、日本でも研究者がいるらしい。それによると、超高齢期になると、物質主義的で合理的な世界観から, 宇宙的,超越的,非合理的な世界観へと変化すると言うもので、宇宙的意 識,自己意識,社会との関係という 3 つの領域に分け られるという。

 この宇宙意識の領域では、自己の存在や命が過去から未 来の大きな流れの一部であることを認識し、過去や未 来の世代とのつながりを強く感じるようになる、とし ている。また,時間や空間に対する合理的な考え方が 変化し、最終的には宇宙(cosmos)という大いなる 存在に繋がっているという認識を持つこと、死と生の 区別をする認識も弱くなり、死の恐怖も消えて行くこ と、などを指摘している。

 また、自己意識の領域では、自己中心的傾向が弱まるのに伴い,自分へのこだわり、これまで培ってきた自分の人格や身体的な健康に対するこだわりが低下し、あるがままを受け入れ、自然の流れに任せると言われる。

 社会との関係の変化では、過去に持っていた社会的な役割や地位に対するこだわりがなくなること、対人関係についても広い関係が急激に狭くなっても、その 中で深い関係を結ぶようになること、そして,経済面, 道徳面での社会一般的な価値感を重視しなくなるこ と、などの特徴があるとされている。

 私の世界に対する意識も、この老人的超越の傾向があてはまるのかも知れない。同じ高齢だからと言っても、それぞれに違った長い人生の間での生活環境も歴史も人様々なので、世界観も当然色々であろうが、高齢者として似たような傾向が出てくるのかも知れない。

 ただし、私は超越的とも言える宇宙の時空の中での自分の位置づけを意識するだけで、宗教的で非合理的な世界観とは明らかに違うし、時間や空間に対しては今も合理的に考える点では明らかに異なる。従って私の感じ取り方が果たして老年的超越にあてはまるかどうかは定かではない。

 ただ90歳を過ぎて私が思うのは、広大無辺である時空の中でほんの一瞬であったにしても、無数の人類の一員として貴重な命を生かせて貰い、いろいろなものを見せて戴き、経験させて貰った宇宙に感謝したいということである。