人はパンのみにて生きるにあらず

 聖書の教えとして有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉は誰でも知っているでしょう。これは一般に「人は物質的な満足だけでなく、精神的。文化的な満足もなければ、生きていけない」と解釈されており、私もそうだとばかり思っていた。

 ところが、新聞にキリスト教の人が書いている記事を見ると、それは誤解なのだそうである。それによるとこうなんだそうである。

 悪魔が断食をして空腹だったイエス・キリストに「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と誘惑したらしい。もちろん誰にも石をパンに変えることなど出来るはずがない。しかし、キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだという、旧約聖書の言葉を引いて反論したのだという。

「パンばかりに固執してはいけない。神の言いつけに従っていれば、自ずとパンも与えてもらえるだろう」というメッセージなのだそうである。要するに、神を信頼することの大切さを説いたものだと言われる。

 しかし、無神論者の私には神の言いつけに従っていれば、自ずとパンにありつけるとは到底思えない。歴史を見ても、キリストを信じながら飢えて餓死した人がどれほどいたことであろう。キリスト教の人に言わせれば、信心が足りなかったからだとか、神が試練を与え賜った

のだとでも言うのであろうが、やはり生きるためにはパンが必要だし。石をパンに変えることは誰にもできない。

「人はパンのみにて生きるにあらず」は誤解であっても素直に解釈して、人が生きるためにはパンで空腹を満たすだけではなく、一般教養や芸術なども必要だというように解釈したいと思う。

 それに飢餓を知らない今の人たちには理解しにくいかも知れないが、人は最低限、パンがなければ生きられないことも知っておくべきであろう。パンさえ満足に得られない政治状況には声をあげ、文化や芸術の貧困に対しては「人はパンのみにて生きるにあらず」とも叫ばなければならないであろう。