「國破山河在」

 先日たまたまテレビで、故中西礼氏の回想番組があり、旧満州からの引き上げの話や、14歳年上で、父親代わりの役割をも果たしていた兄が特攻隊の生き残りで、戦後、破滅願望に振り回されて、衝動的な行動が多く、長年悩まされたことなどを知ったが、それを機会に、久し振りで私も敗戦直後のことを思い出させられた。

 もう戦後、76年にもなり、戦争を体験した人も殆ど亡くなってしまい、戦後生まれの人ばかりとなり、沖縄問題で「戦後生まれだから戦争のことは知らない」と言う総理大臣まで出てくる時代となり、右翼の人達がいい加減な根拠で、日本の戦争は止むに止まれぬ正義の戦争だったのであり、南京虐殺慰安婦の問題も、全てでっち上げで、実際にはなかったのだなどと主張するのを見聞きすると心外に耐えない。

 その時代を生きて来た私から見ると、どう見ても中国に対する戦争は日本の野蛮な侵略戦争であり、日米戦争は、その矛盾の必然的な発展の結果であったことは、否定のしようのない歴史的事実であることは、その時代を生きて来た者として、自信を持って言える。人は過ちを犯すものである。負の歴史をもしっかりと認識することが、将来の国の発展のためにも、人類の進歩のために不可欠である。

 敗戦時、私は17歳であった。大日本帝国に純粋培養されて育ち、他の世界を全く知らなかった私は、忠君愛国の熱情にもえ、天皇陛下の御為には命を投げ出しても戦わねばと本気で思い、1945年、海軍兵学校の生徒となり、敗色の強くなった戦争末期には、最早、御国の為に死ぬことが目的化し、いつ何処で死ぬかに突き進んで行くよりなかった。もう3ヶ月も戦争が続いていたら、略、確実に死んでいたであろう。

 それが一転、敗戦となる。兵学校も解散となり、何もわからぬまま、敗戦の混乱の中に放り出されてしまった。家へ帰れるのは嬉しい気もしたが、どうして生きて行くべきか、どうすれば良いのか、全くわからなかった。敗戦は私にとっては、単に戦争に負けたということではなかった。それまでの私の全てが否定され、無くなってしまったのであった。神にも仏にも見離された生ける屍であった。

 そんな虚な精神で、体だけが生きて大阪へ帰った。途中、夜の無蓋車から見た日本は、広島ばかりでなく、帰る途中の街々も、神戸も大阪も全てが廃墟の焼け跡であった。そんな中を抜けて、当時家族が疎開していた千早赤作村へ帰った時、久し振りで昔ながらの日本の里山の風景を見て、つくづく思ったのが「国破れて山河あり」であった。まさにこういう景色を言うのだなとつくづく思ったものであった。

 自分が生きる根拠として来た国というものが無くなってしまい、生きる手がかりもなくなり、虚無の世界に突き落とされて呆然としていたが、眼前の野山は以前から変わらぬ姿でどっしり佇んでいるではないか。変わらぬ世界が情けない。この世界が全て無くなってくれれば・・というような思いで、虚な目で眺めていたことを覚えている。

 それからどれだけ長い間、虚な世界が続いたことであろうか。その時以来、神も仏もなくなり、無神論者になった。教会の牧師が聖書をくれたが、「先ず信じる」ことなど出来る筈もなかった。破滅願望の特攻帰りの先輩の気持ちもよく分かる気がした。

 自分が生きているこの世界も永久に続くものではない。人は誰しもいつかは死ぬ。人類もいつかは滅びる。人の一生などその一瞬に過ぎない。その歴史の一瞬の中で、何をしようと、何が起ころうと、大局的に見れば、どんな意味があるのだろうか。この敗戦国の片隅で生きている意味があるのだろうか。何億という人類の中の一人が死のうと生きようと変わりはない。生きている意味があるだろうかなどという考えに長く支配されていたものであった。

 死ぬことが頭を掠めたことも何度もあった。しかし、死のうとして、まだ途中でしまったと思うかも知れない。もう少し待った方が良いかもという心が、どうにか死を引き止めたようであった。敗戦によって急に踵を返して、戦争のことなどすっかり忘れたかのような顔をして、平和だ、再建だ、商売だと動いている人に無性に腹が立って仕方がなかった。

 今ではもう遠い昔の話になったが、私の人生は17歳で敗戦を迎えるまでの時代と、戦後から紆余曲折を経て今に至るまでの時代とで、はっきり分けられてしまっている。戦争から物理的に大きな被害を免れた私でさえ、受けた精神的なダメージは大きかった。虚脱状態が何年ぐらい続いたことであろうか。今で言えば、正にPTSDというところであろう。

 多くの人の人生や希望を奪う軍国主義や独裁政治、その挙げ句の果ての戦争には絶対に反対する由縁である。