国破れて山河あり

 敗戦によって海軍兵学校はなくなり、大阪へ帰ってきた。

 国のため、天皇のために死のうと覚悟していたのに、その国がなくなり、大日本帝国に純粋培養されて育ったような私にとては、敗戦は単に戦争に負けたことだけではなかった。それまでの私が生きる根拠としていたものが全てなくなってしまったことを意味していたのであった。引き揚げてきた時、南河内の山々を見て「国破れて山河あり」という古事をつくづく感じたものであった。

 国が敗れたのだから、もう自然も何もかも無くなれば良いのに、自然は同じ姿で静かに厳として残っていることに腹立たしい思いを感じた。自然も何もかもすべてなくなれと言いたかった。しかし、人々の生活もそのまま続いていた。人々は生活のため、その日の食事をうるために皆それぞれに働いていた。

 自分だけが取り残された感じがした。自分が頼るものが何にもないのに、皆それぞれに一生懸命生きているではないか。自分はどうすれば良いのか分からない。何のために生きるのか。

 最早、天皇のために死ぬわけにはいかない。大日本帝国と一緒に死ぬわけにも行かない。もう大日本帝国はなくなってしまっているのである。そこから放り出された私はどうして良いか分からない。ところが世間の皆は相変わらず生きている。時代が変わっても、生きるためには自分で考えて、それぞれに自分や家族のために働き始めている。

 しかし、このままただ漫然と生きていても良いのかな、生きる値打ちのある世界なのであろうか。こんな惨めな空虚な世の中で生きている値打ちがあるのだろうか。どうせ人類は勝とうが負けようが、お互いに殺し合おうが、仲良くしようが、いつかは皆滅んでしまうものである。永久に変わらぬ世界はあり得ない。

 その中で、早く死のうが遅く死のうが、この世に今生きている意味があるだろうか。この哀れで悲惨な敗戦国に生きていく意味があるのだろうか。哀れな植民地人や奴隷としてでも生きていくべきか。虚無の世界に入り込んでしまっていた。

 キリスト教の牧師と神の存在について議論したこともあった。牧師は「まず信じなさい」というが、今裏切られたばかりなのに、何をどう信じろというのか。私の神は死んでしまったばかりなのである。絶対的な神などいない。

 「先ずはこれを読みなさい」と言って牧師はバイブルをくれたが、開けてみると、「アブラハムの子の誰それがどうした」とかがまず出ており、「こんな馬鹿らしいもの読めるか」と投げ出した。 教会のあたりを彷徨っているキリスト教の信者と称する若者たちは、皆一様に浮わついた、薄っぺらな感じのする輩ばかりだったので、かえって反発を感じた。

 こうして私の虚無は深まるばかり。今更勉強したって何になる。いっそ人類は滅びてしまえ。自分も生きていてもしょうがない。いっそ死んでしまった方があっさりして良いのではないかなどとの考えに覆われてしまいがちであった。

 周囲の人間たちはどう思って生きているのだろうか。人々は戦争については語ろうとせず、貧しい哀れな生活の中でそれぞれに工夫して精いっぱいにその日を暮していたのであろう。議論をふりかけてみても、勝手なことを言うか、生活に精一杯で議論が成立することすら少なく、沈黙の日々が続いていた。

 惨めな貧しい日々が続いた敗戦後の月日であった。