私にとっての八月十五日

 八月十五日は古くからのお盆の日でもあり、敗戦の日でもある。終戦記念日などという人もいるが、私にとっては終戦などといった生やさしい日ではなく、戦争に負けて全てがなくなった敗戦の日である。

 もう日本に勝ち目のないことは明らかであったが、負けるという言葉が封印されており、崖から飛び降りるような無謀な最後の戦闘をしなければと覚悟をしていたた矢先の突然の天皇の言葉であった。全て「天皇陛下の御為に最後のご奉公をして死のう」との覚悟を急に止められたようなものであった。

 それでも「貴様たちは最寄りの特攻基地へ行け!海軍はまだ戦うぞ」と檄を飛ばす上級生もいたが、天皇の軍隊である。天皇の直接の命令は聴かざるを得ない。

 突然、自分の中で全てのものが崩壊して行くのを感じた。八月末には惨憺たる広島の原爆被害の廃墟を縦断して、無害貨車で帰阪。河内長野疎開先に帰った時には「国破れて山河あり」とはこういうことかとつくづく思ったものであった。こんなに惨めに社会が変わっても、山や川は昔と変わらず悠然としている。いっそのこと、こんな山も川も潰れてなくなってしまえと思ったことを思い出す。

 昭和3年生まれで、敗戦時17歳の海軍兵学校生徒だった私は、大日本帝国帝国の軍国主義に純粋培養されたようなものであり、他の世界を全く知らず、ただ「皇紀二千六百年の大日本帝国たる神国」が全てで、他の世界を全く知らなかったのである。敗戦は私にとっては、ただ戦争に負けたというだけではなく、世界の全てが崩壊し、何にも頼るものがなくなってしまったことを意味していたのである。全てを失い、ただ茫然として虚無の世界を放浪するよりなかった。

 急激な社会の変化の中での人々の変容に腹が立って仕方がなかった。キリスト教の牧師に聖書を渡されたが、たった今、神も仏も失った者には反発しかなかった。次第に虚無の世界に陥り、絶望して死さえ考えた。今で言えばPTSD  とでも言えるのであろうか。

 そんな状態が何年ぐらい続いたことであろうか、今でも敗戦日を境に、その前と後では私の人生はぷつりと切れているのである。以前にも、このようなことを書いているが、敗戦は私にとっては、忘れることの出来ない人生の分岐点であったのである。