長い人生の間の色々な思い出の場面を振り返ってみると、どれも周辺はボケていても真ん中にははっきりしたそれぞれの映像が甦って来るものである。ところが、ひょっと気がついてみると、私の場合、思い出される色々な出来事の殆どの背景は良い天気であり、雨や嵐の場面は少ない。
雨が降れば予定が変更されたり、中止になったりすることが多いし、雨で屋内に閉じ込められて綺麗な景色も見損なってしまうようなことにもなるからであろうか。
ニュヨークの摩天楼もナイアガラの滝も、はたまた、パリやロンドンの景色も、先ず浮かんでくるのは晴れた日の眺望であり、色々な場面の思い出である。サントリーニ島の夕焼け、朝焼けも綺麗だったし、ナイアガラの滝で飛沫に打たれたのも、古代メキシコのピラミッドへ登った時も良い天気であった。
こういった観光でなくとも、逆に嫌な思いでも、概ね青い空を背景にした映像が浮かび上がってくる。1945年8月6日の広島の原爆も雲ひとつない青空にあの原子雲がむくむくと成長していくのを見たのだし、8月15日の敗戦の”玉音放送”も青空の下で、蝉の鳴き声のする中で聞いたのだった。
勿論、それでも雨や嵐の思い出がないわけではない。1934年(昭和9年)の室戸台風の時は怖かった。大雨、大風で、部屋の中から見ていると、突風と共に、わが家の木の塀がまるで紙をめくるように剥がされ、向かえの家の大きな松の木が倒れ、門の屋根を無惨に打ち壊した景色は今も忘れられない。
また、1936年(昭和11年)の2・26事変。寒い冬の夜明け前、まだ薄暗い雪の降る中を、外套を着た兵士たちが着剣して小走りに行き来していた姿が今も忘れられない。不況の続く日本で農村の疲弊が強く、農村出身者の多い兵の不満が鬱積し、それに乗った青年将校たちの「尊王討奸」「昭和維新」を掲げたクーデターであった。
それと共に、先日テレビに出て来たのだが、1944年(昭和19年)の11月3日、明治節の日のことである。戦争が長引き、兵士の不足で、いよいよそれまで”兵役猶予”とされてきた学生まで動員しなければならなくなり、明治節に学徒動員の出陣式が行われた。銃を担いだ大学生たちが明治神宮外苑競技場だったかを行進したのだが、運悪くその日は雨で、学生たちはずぶ濡れになって行進したのであった。
それまで明治節の日は毎年決まって晴れで、前日まで雨であっても、その日は天気になると、決まっていたようなものだったたが、その年に限り、雨が降り続き、誰にも言えなかったが、何か悪い兆候のような気がしたものであった。やがて1年も経たず敗戦となったのである。
思えば全て忘れ難い遠い日の出来事であった。やがて亡くなる老人の命と共に、過ぎ去った歴史も次第に消えっていってしまうのであろう。