「藁屋根の家が減ったね」

 昔は汽車に乗ってあちこち旅行していると、車窓から見える景色にそれぞれの地方色があって楽しかった。まだ藁屋根の農家などがアチコチに残っている頃であった。消えゆく藁屋根風景を記録しておこうというのか、藁屋根の家の絵ばかりを描いていた向井潤吉という画家もいた。写真のクラブで一緒だった人の中にも、藁屋根の農家に残り柿を添えたような風景ばかりを撮っている人もいた。

 まだ農家の前庭に筵が敷かれ、農作物の天日干しをしていたり、その奥に牛小屋があったりしたものであった。こう言った農村風景も地方によって異なり、関西は牛だが、関東へ行くと馬であった。秋になって、米の収穫後の藁の干し方も地方によって異なり、横に並べてぶら下げて干したり、積み上げたりと色々異なり、それを見るだけでも旅行して来た感じがして楽しいものであった。

 そういった藁屋根も都市化が進むとともに防火対策で金属製のトタンを被せて改装され、そのうちにその建物自体がなくなり、味気のない新建材の家に変わったりして、今では藁屋根の家など意識的に残したものぐらいで、殆ど見られなくなってしまった。

 戦前の私の子供の頃には都会ではもう藁屋根はなく、何処もかしこも瓦屋根が大勢を占めていた。今でも覚えているのは今の環状線、当時の城東線の車窓から東を見ると生駒山までずっと瓦屋根が海のように続き、その間に学校や銀行などの鉄筋コンクリートの白い建物があちこちに浮かんでいるといった景色であった。鯉のぼりが泳いでいたのが印象的であった。

 それが空襲で全て焼け野原となり、戦後の雑然としたバラック建築に変わり、やがてはそれも変わって、瓦屋根も減り、スレート屋根やコンクリート作りの平屋根などが増え、車窓からの景色もすっかり変わってしまった。

 母親が生きていた頃には何処へ行っても「藁屋根の家が減ったね」とよく言っていたものであったが、今やコンクリートや新建材の平屋根の建物ばかりになり、「三角屋根や瓦屋根が減ったね」と言わねばならないようになってしまっている。

 郊外の住宅地でも、昔は石組みの上に生垣や、木組みの塀が続いていたような所が多かったのに、今ではそれらの宅地も分割され、敷地いっぱいに建物が建てられ、白っぽい新建材の建物が狭い敷地一杯に建てられ、駐車のスペースが必要なので、瓦屋根や垣根がなくなり車が並ぶようになっているところが多くなってしまった。

 それに近年はマンションブームである。あちこちで高層マンションが軒を連ね、我が家からいつも見えていた五月山も、マンションに遮られてすっかり見えなくなってしまった。もう10年もすれば駅に近い所などでは、全てマンションに置き換わり、藁屋根どころか、瓦屋根の家もなくなり、全く視界の開けない都会の真ん中と変わらない街になってしまうのではなかろうか。

 私の生きた100年ばかりの間にも、こんなに世間の景色が変わってしまうものかとただ驚かされるばかりである。