世界中で誕生日はお祝いすることになっているようだが、90歳も過ぎると、もう子供の頃のような誕生日の期待や喜びもなくなり、日々の繋がりの中のある一日に溶け込んでしまう。
九十三、楽しくもあり楽しくもなし
誕生日のことなど忘れていたら、ニューヨークの娘から誕生祝いのプレゼントが届き、ロスアンジェルスの娘から電話がかかった来て、誕生日を思い出させてくれた。やっぱり気にかけてくれる者のいることは嬉しいことである。
1928年7月24日が私の誕生日である。例年、暑い夏休みの最中である。私の若い時はずっと戦争だった。夏の暑いのに、裸で貯水槽掘りや、工場の勤労動員。淀川の河原でグライダーの訓練。それでも間を縫って映画にもよく行った。
勉強は中学3年まで。4年の時は一日中、ずっと工場動員で、中学は4年で繰り上げ卒業。父親に「お前が海軍兵学校に行くようになったら日本もおしまいだな」と言われながら海軍に行く。
海軍兵学校と言っても敗戦直前。乗艦実習といっても機雷攻撃を恐れての一晩限り、あとは基礎訓練の他は、陸戦訓練、防空壕掘りなど。アメリカ軍の空襲で、近在の軍艦は皆座礁、「どうにかなる」としか言えない日が続き、やがて8月15日の敗戦。
原爆投下後の広島を通っての引き揚げ。国敗れて山河あり。大日本帝国も、万世一系の天皇陛下も、忠君愛国も、大東亜共栄圏も、大日本海軍も全てが崩壊して消失。身体はあれど、心は空虚。全てを無くした者のニヒリズム。今でいうPTSDがいつまで続いたことであろうか。自殺から逃れて漸く生きて来た戦後であった。
思い出せば成長期は辛いことばかりだった。しかし人間というものはいくら条件が悪くても、その中でそれなりに、喜びも悲しみも作り出すものである。闇市でも美味いものを探し出すし、箸がなくても、枯れた草の幹を折って自製の箸を作り、自慢して食べたものだった。大きな雑音ばかりの映画館で「羅生門」もかぶりつきで見たし、「生きる」のブランコも忘れられない。
思い出すままに順序もなく並べてみたが、夏はいつも蝉の鳴き声が背景にあった。にいにい蝉から始まり、油蝉になり、盆を過ぎると法師蝉が鳴きき出して、いつも夏が無為に過ぎて行くのに、これで良いのかと急き立てられたものであった。
もう全てが遠い遠い昔のことになってしまった。子供の頃に、昔の話として聞いた明治維新から敗戦までが77年しかなかったのに、敗戦でアメリカの属国になってから今日まで、もういつしか76年。同じくらいの時間が経ってしまっているのに驚かされる。それにもかかわらずこの国は変わらない。
戦後の日本は、朝鮮戦争、ベトナム戦争のおかげで、経済的には復興し、一時はJAPAN as No.1だの、一億総中流だのと自画自賛したこともあったが、その後の衰退は覆うべくもない。いまだに憲法よりも日米安保条約や地位協定が優先して、政府はそれに従い、国民を誤魔化してばかりしている。
九十翁に最早出来ることは少ないが、現状を憂い、未来に希望を託すことは出来る。せめて、この国が完全に独立し、真に国民のための政府が出来、更には、いつの日か、行き詰まったこの資本主義世界が淘汰され、万人が平等で平和に暮らせる日が来ることを願ってやまない。