救急車

 まだ若い医者だった頃、一度患者の移送か何かで救急車に乗ったことがあった。ピーポ、ピーポと警笛を鳴らしながら走る運転席の隣から前方を見ていると、列をなして走っている周りの車が皆一斉に横によけ、交差点にかかっても、赤信号であろうと、横からの車は全て止まり、その間を縫うように救急車はスイスイと走り抜けて行くではないか。いつも渋滞に泣かされていると、見ていて、こんなに気持ちの良いことはなく、胸がスカッとするような感じがしたことを今でも覚えている。

 しかしこんなことはこの一回だけで、病院に勤めていると救急車を受け入れる側になる。夜間の当直の時など、ピーポーピーポーの音を聞くと、先ずは何処へ行くのかなあと思い、次第に音が大きくなって来ると、これはウチだなと思い、ベッドから抜け出して用意することになる。救急病院のことは知らないが、一般病院で一晩に二人も三人も救急患者で起こされると、またかと眠い目をこすりながら不運を嘆いたものであった。

 ただこういった当直は若い時だけだった。その後は、こういう救急車の音を聞くのは大抵、家で寝ている時ということになった。私が住んでいる街は明治時代に分譲された古い住宅地で、一頃は我々よりも一世代前の人たちが多い街だったので、丁度、世代交代の頃になっていたのであろう。 夜寝静まってから救急車のピーポーの音が聞こえる度に、今夜もまた何処かのうちのお年寄りが亡くなったのではと想像した時代が続いた。ところが、やがては新陳代謝が進み、今や殆どの家が代替りして新しい家や人ばかりの街になってしまった。

 そんなことを思っていたら、今度はいつの間にか、こちらが歳を取り、救急車のお世話になる順番になってしまった。若い時は自分が救急車で運ばれることなど想像も出来なかったが、歳をとるとともに、これまでに合計5回も救急車のお世話になってしまっている。

 最初は87歳で心筋梗塞になった時である。自分でも梗塞ではないかと思ったが、元気だったので、近くのなじみに医師の所へ歩いて行ったら、心電図で心筋梗塞とされ、すぐに救急車が呼ばれ循環器病センターへ直送されたのであった。

 2回目は循環器病センターから退院した次の日であった。退院祝いで親戚の者が来ている時に、運悪く血管副交感神経反射で意識喪失して、倒れたものだから、皆がびっくりして救急車を呼んだのであった。救急車の到着した時にはこちらはもうすっかり良くなっていたが、退院直後なので、大人しく救急車に乗らざるを得なかった。救急車の音に驚いた近所の人たちに見守られながら、歩いて救急車に乗る時の恥ずかしさを忘れることが出来ない。

 3回目は酔って帰って駅の階段で滑り、側壁で前頭部を打って出血した時である。通りがかりの親切な女性が、大丈夫という私の声もきかず救急車を呼び、家にまで電話をかけてくれて、救急病院に搬送されたことがあった。

 次の4回目は、夏に芦屋の美術館に行った帰途である。駅まで帰って公園で一服する直前に足を滑らせて転倒し、ステッキが口吻にあたり、入れ歯が割れて口内出血し休んでいる時である。一時的に意識を失ったのを見て、近くの市の職員が救急車を呼んでくれたが、すぐに良くなったので、救急車の中でバイタルを調べ、しばらく休んでから電車で帰宅したのであった。 

 もう一回はいつだったか思い出せないが、自宅で排尿失神を起こしたことがあり、転倒音に驚いた女房が119番通報して救急車が家まで来てくれたが、到着時にはもう元気だったので、玄関でバイタルを調べ心電図まで撮って、帰って貰ったこともあった。

 まさかと思っていたが、いつの間にか5回も救急車のお世話になっているわけである。救急隊の方々には心からお礼を言うともに、日本の救急体制の素晴らしさには感謝しかない。