専門分化した医療の落とし穴

 最近どこかの大病院で、心筋梗塞か何かで入院してCT検査を受けた患者が、たまたま検査で腎臓だったかにガンが見つかったが、本人に知らされず手遅れになったという話が新聞に載っていた。

 詳しい実際は判らないが、現在のように医療の専門分化が進み、専門に特化した病院の主治医が、効率化を目指した多忙な医療環境にあると、このようなことも起こりうるのではなかろうか思われた。

 恐らく主治医は目の前の仕事に忙しく、関心はその時の主目的である心筋梗塞ならその治療に頭いっぱいで集中しており、直接その時の治療に関係しない偶発的な事象は認識しても、その時点では医師にも患者にも関心は二の次で、当然それらは後で処理されることになる。

 ところが、そこに多忙な環境が続き、次々と新たな患者の治療に当たらねばならなくなると、過ぎ去った症例のたまたま遭遇した副次的な所見などは、つい忘却の彼方に押しやられてしまうことになり易い。高度に専門化された病院などでは、このような過誤が起こりやすいであろうことは十分想像出来る。

 恐らくこれは個人の不注意といったことで解決できる問題ではなく、システムとして落ち度のないように、自動的にでも患者に伝えられるようにされるるべきものであろう。専門分化した病院では、他にも同じようなことが起こりやすいのではなかろうか。

  私は 4年ほど前に、心筋梗塞になり、救急で循環器病センターに入院したことがあるが、その時の経験はこうだ。救急車で病院に到着すると、後はもう説明も殆どなく、こちらの意思を聞くでもなく、まるで機械的にレールに乗せられたようにストレッチャーに乗せられたまま運ばれて、ステントを入れられた。流石に専門的な大病院で、何の間違いもなく、効率的に治療されたわけだが、何か人間的に扱われたというより、機械的な流れ作業に乗せられたような感じがしたことを覚えている。

 こんな環境下では、たまたま何処かに異常が疑われる軽い異常があったとしても、循環器に関係の薄いものであれば、見逃されたり、無視されることもありうるような気がする。

 どうしても高度で分化した医療を行おうとすると、技術的なことが先行するので、「人間」よりも「人体」が先行するので、治療する医療者側の「人体」と、治療を受ける側の「人間」との乖離が起こり勝ちなことが避けられないのではなかろうか。

 最近は外来などでも、病院では専門分化しているので、心臓が悪くて循環器科にかかっていて、肝臓に何か問題があれば、患者が尋ねても、肝臓の専門医に回されるだけである。あちこちに問題があれば、問題の数だけの科に回されて、どこでも全体としての話を聞いて貰えないことにもなりかねない。

 そういった専門化した医療と、部分の集まりではない「人体」もバラバラにされやすいが、更には病悩を負う「人間」との齟齬も時に見られ、それが医療訴訟などを頂点とする、医療の落とし穴となっているような気がする。

 なお、それとは逆に、老人の医療費が問題となり、老人医療などのあり方が問題になって来ているが、今度は個々にの病変が軽視されて、老人としての「人体」だけが目標にされ勝ちになるかも知れないが、部分があっての「人体」であり「人間」であることの認識も忘れられてはならないであろう。