厠(かわや)

 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を読み返していて、久しぶりで「厠」という言葉に出喰わして懐かしく思った。そういえば、もう今では厠などという言葉を殆ど聞かなくなってしまったが、我々が子供の頃には、現在のトイレと同じぐらいの感覚で便所と言ったり、厠と言ったり、お手洗い、W.C. などと言ったものであった。

 ただし、厠というのは母屋から少なくとも半独立した様な建物にあったのが普通で、厠という言葉自体が、元は川の上に作られたトイレを意味する「川屋」から来ているのだということを聞かされたことがあった。

 厠でなくとも、昔の日本の家ではトイレは家の外にあることが多く、東北の様な寒いところの農家などでは、夜に起きて戸外の寒いトイレに出て行かねばならず、そのために脳卒中が多いのだなどと言われていた。

 都会では流石に家の中に取り込まれていたが、それでも未だ片隅に追いやられており、その上「風水」とやらで、鬼門、すなわち北東や、裏鬼門の南西方向はダメだなどと言われていたりもしていた。

 私の子供の時の印象でも、トイレと言えば、薄暗く陰気で、寒く汚い所で、仕方がないので行くが、出来るだけ避けたい場所であった。流石に板張りの便器は廃れていたが、谷崎の嫌った白い陶器の便器に、周りのタイル張りの床や壁が多かった。

 肥壺式なので覗き込むと蛆虫がウヨウヨしていたし、蠅がブーン唸って飛んでいたし、汲み取り口があるので、そこから風が入って寒かった。興味深かったのは、2階にトイレのあるうちがあったが、水洗式ではなく、2階から下まで筒抜けになっていたので、排泄物が急降下して下まで落ちていくのが快感であった。

 溜まった便壺の処理には、定期的に近在の百姓さんが肥桶を担いで汲み取りに来ていた時代が長かったが、戦後いつ頃からだったろうか、市のバキュームカーが来て太くて長いホースで吸い上げる様になっていった。

 水洗式でないので、便器の開口部も広く、年少児なら転落もあり得たであろうから、小学校の低学年児が行方不明になった時には、先ずトイレをチェックすることになっていた様である。また、泥棒が汲み取り口から侵入したという話も聞いた。

 そんなトイレがいつ頃まで続いていたであろうか。水洗便所が普及し出したのはやはり大阪万博を目指す様になった頃からではなかろうか。初めの頃の水洗式は天井に近い高い所に水槽があって、そこから垂れた紐を引っ張って水を流す式であったが、その後の発展は目が覚める様な素晴らしいものであった。

 今や日本中のトイレが殆ど水洗式となり、取っ手を回すだけとか、ボタンを押すだけで流がされる様になり、おまけに日本ではウオシュレットが普及し、今では何処の公衆トイレも清潔になり、おかげで安心して利用することが出来るようになった。

 ウオシュレットといえば、イスラムの人たちは昔から紙を使わず、水で洗う習慣があったそうだが、そのため、インドネシアなどではトイレに水に入ったバケツが置いてあったりしたが、トルコでは小さなシャワーの様な水道のホースが備えられている所があった。簡易ウオッシュレトだなあと思ったものであった。

 それは兎も角、何処の公衆トイレも清潔で安心して利用出来るようになったためか、最近では朝起きて家で済ませてから出かけるのでなく、途中の駅のトイレを利用する人が増えた様である。朝の通勤時間帯ぐらいの間は、何処の駅の公衆便所にも長い行列が出来ているのに驚かされる。

 ところでこのトイレの呼び方については今はもっぱらトイレと言われている様だが、その呼び方は、あからさまに言いにくいからこそ、色々な呼ばれ方をしてきたし、今でもいくつも呼び方がある。

 日本下水文化研究会というのがあって、そこから森田秀樹氏が「便所異名集覧」という本を出されている様で、それによるとトイレの呼び方は1114語もあるそうである。

 比較的よく使われて来たものとしては、憚り、雪隠、ご不浄、手水場、洗面所、お手洗い、化粧室、パウダールーム、WC(WaterCloset)などであろうが、その他にも東司とか、後架、閑所とも言われてきた。

 英語では、RestRoom、Lavatory、BathRoom、Toiletなどであろうが、最近は単にMensRoom、LadysRoomも多い様である。

 また面白いのは、百貨店などでは昔から会社によって異なった隠語を使って来たようで、遠方、中村、二の字、さんさん等、色々あった様である。また飲食関係では、普通4番は欠番なので、「4番テーブル」と言ったり、電話番号の045(オシッコ)から「横浜」とか、音入れ(おトイレ)から「レコーディング」「カセットテープ」などが使われていたとかいう。

 トイレは今後も益々改良されていくであろうが、中国のウオッシュレトには浣腸機能のあるものまである様だし、劇場などでの男女の個室の利用状況などや、LGBTQなどへの配慮から、全てを一様な個室にして、男女の別なく順に利用する様になっている所もあるとかである。

 谷崎潤一郎から、とんだ下ネタになってしまったが、私が生きている間に起こったトイレの変化は、これだけでは言い尽くせない大きなものであったことを最後に述べておきたい。